ishiba今週の月曜に、自民党の石破政調会長にインタビューした。来春にも解散・総選挙といわれ、そうなると自民党が政権に復帰する可能性が高い。「次期首相」のアンケートでトップになった石破氏の話は、よくも悪くも「与党的」で、あまり本音は引き出せなかった。

ただ、得意の外交・防衛について持論を述べるときは熱がこもっていた。しかし「衆参の2/3で発議して国民投票で過半数を得ることは不可能なので、解釈を変えるしかない」という。これは現実主義だが、私は憲法論議を避けるべきではないと思う。この問題は、自民党が民主党に対して差別化できる最大のポイントだからである。

現在の憲法は、戦後のドサクサの中でGHQによって起草されたもので、多くの欠陥がある。石破氏自身がいうように、合法的な暴力を独占することは主権国家の定義であり、紛争解決の手段として戦争を放棄する国家というのはほとんど名辞矛盾である。これを制定させたときは、GHQ民政局は「ファシズムを打倒したので、今後は戦争は起こらない」と考えていたが、その見通しはすぐ冷戦の開始によってくつがえった。

そこでアメリカは憲法を改正して再軍備させようとしたが、吉田茂はそれを拒んだため、日米安保で米軍が日本を防衛するコストを負担するはめになった。これはGHQが身勝手な憲法を押しつけた結果だが、既成事実を利用してアメリカの軍事力にただ乗りしたのは吉田の機会主義だった。発展途上国だった日本にとっては、それは便利な戦術だったのかもしれないが、結果的にはこの「軽武装路線」が半永久的なレガシーになってしまった。

さらに深刻な影響は、このように政治的につくられた「平和主義」が美しい理想として教え込まれ、国民の強い固定観念になったことだ。平和憲法は「全面講和」を主張した丸山眞男以来の「進歩的知識人」や朝日=岩波的な言説のよりどころとなった。いま思えば、軍事費をアメリカに負担してもらう日米安保に日本人が反対したのはとんだ勘違いだが、日米同盟を擁護する「右派知識人」は一貫して異端だった。

その結果、平和や安全は享受するがそのコストは他人に負担させ、社会保障は求めるがその財源は国家に負担させるフリーライダー意識が、日本社会に根づいてしまった。その典型が、民主党政権の中核になっている団塊世代である。彼らは少年時代に平和憲法を教え込まれ、ベトナム反戦運動や学生運動をきっかけに政界に入り、フリーライダーを「福祉国家」として賞賛してきた。

GDPの2倍に及ぶ政府債務や、たらい回しされる沖縄の基地問題は、こうしたフリーライダーのおかげだが、ツケは誰かが払わなければならない。そうした問題に向き合うためにも、自民党が結党の精神に返って憲法を議論することは意味がある。防衛や社会保障などの社会的コストを誰が負担するのかを正面から論じることは、財政再建のためにも避けて通れない。石破氏は、将来世代にただ乗りする年金制度の改革には消極的だったが・・・