サンデルの政治哲学 (平凡社新書)先週、自由が丘の本屋に行ったら、入口のところに『ハーバード白熱教室講義録』と本書が山のように積まれていて驚いた。日本人の感覚に合うとは思えないアメリカ的な政治哲学がこんなに受けるのは不思議な現象だが、『講義録』は『これからの「正義」の話をしよう』と内容がほとんど同じで、前著を読んだ人が買う価値はない。

サンデルを本格的に勉強しようと思う人は『リベラリズムと正義の限界』を読むかもしれないが、これは細密なロールズ批判なので、『正義論』を読んでいないと何を論じているのかわからないと思う。またロールズもサンデルもその後、立場を変えたので、最近の議論までコンパクトに紹介している本書が便利だ。

わかりやすいのは、サンデルの立場を師匠のテイラーまでさかのぼって整理し、ヘーゲリアンであるテイラーの思想から説明している点だ。テイラーを元祖とするコミュニタリアニズムは、ロールズのカント主義をヘーゲル的な客観的観念論で批判するものだ、という指摘はなるほどと思わせる。

ヘーゲルはカントの先験的範疇の概念を批判し、それが先験的に与えられるものではなく弁証法的に構成されるものだと論じた。同じようにテイラーもサンデルも、ロールズの正義の概念の基礎にある「負荷なき自己」を批判し、それが原子論的個人というフィクションであることを明らかにする。個人が言語なしで思考できないように、社会的規範なしに個人の行動の是非を論じることはできない。「中立な正義」はないのだ。

しかしカント的な悟性の絶対化を否定したヘーゲルも、最終的には「絶対精神」を持ち出し、その制度的な形態としてプロイセン国家を絶対化した。それを否定したマルクスも、コミュニズムを絶対化した。コミュニタリアニズムの論理構成は、コミュニズムとよく似ている。その依拠する「共通善」は具体化しない限り無内容なスローガンにすぎず、具体化すると特定のイデオロギーになってしまうのだ。

サンデルも指摘するように、ケインズ的リベラリズムもロールズ的な「偽の中立性」である。そこでは有効需要を創出してGDPを引き上げることが異論のない善と考えられているが、GDPと幸福にあまり相関はない。むしろ成長の追求によってコミュニティが崩壊し、人々がアイデンティティを喪失するコストのほうが大きい可能性もある。特にこれからあまり成長しない日本では、所得という「共通善」を疑ったほうがいいのかもしれない。