資本論の哲学 (平凡社ライブラリー)廣松渉の代表作が、久々に文庫でよみがえった。内容は、デリダより20年早く「価値の幽霊的性格」を論じたもので、マルクスがヘーゲル的な実在論を否定しながら「抽象的人間労働」という価値実体に依拠して価値論を展開した矛盾を問題にしている。しかしデリダが「マルクスもヘーゲルの限界を超えられなかった」と突き放しているのに対して、廣松は「限界効用説のような唯名論も一面的だ」とマルクスを擁護する。
この護教論はかなり苦しいが、いま思えば現代的な意味があるのかもしれない。マルクスがベイリーの価値論を攻撃したのは、商品の価格が交換比率のみによって決まるとすれば、その価値はどうやって決まるのかということだった。商品の価値が相対的に決まるとすれば、それは恣意的で不安定なものになってしまう。価値を安定させているのは、日々の変動を通じて一定した労働時間という社会的な尺度だ、というのがマルクスの批判だ。

これはマルクスが間違っており、個々の価格とは別の抽象的な価値という実体はどこにも存在しない。これは廣松の認識論についてもよく指摘された問題で、大森荘蔵が「あなたの共同主観性は実体概念で、それがどうやって間主観的に成立するかという過程論が欠けている」と批判すると、廣松は「モナド的な個人の意識をいくら集計してもインターモナディックにしかなりえない」と反論していた。

これはポストモダン後を考える上でも重要な論点である。価値実体を否定するポストモダンは、現実にそういう価値がなぜ成立しているかを説明できないので、社会に何の影響ももたない文芸評論的なおしゃべりにすぎない。問題は、根拠のないはずの価値がなぜ信じられ、特定のイデオロギーが多くの人々に共有されるのかである。廣松が「物象化」と呼んだのはそういう社会的メカニズムだった。

Binmoreも指摘するように、ベイズ更新は所与の事前確率(モデル)を観察された事実で修正する手続きを示しているだけで、そのモデルがどうやってでき、社会的に共有されるかについては何も語っていない。最近の脳科学には、脳がベイズ更新によってモデルを修正しているという説もある。この場合は初期の事前確率は遺伝的な脳の構造で決まり、それを言語習得によって社会的に更新するわけだ。

最近の金融危機が示したように、価値は本質的に不安定なもので、それを支えているのは信用秩序などの「社会的な事前確率」が共有されていることだ。それがハイパーインフレなどによって崩壊したとき、市場も崩壊する。マルクスがそれに気づいて労働価値説を放棄していれば、恐慌や革命の必然性は価値論からストレートに導けたかもしれない。