ルイ・ボナパルトのブリュメール18日―初版 (平凡社ライブラリー)私が日弁連にはマルクス主義の影響が残っているとつぶやいたら「炎上」しているが、マルクス主義の影響というのは彼の本を読んだかどうかと関係ない。私の知っている学生運動の闘士のほとんどは『資本論』も読んでいなかった。むしろマルクスを読まない学生ほど「肉体派」になる傾向が強かった。

民主党政権の首脳に多い全共闘崩れの人々には、あの時代の空気を感じる。彼らの依拠しているのは、マルクス主義の理論ではなく素朴な善意であり、こうした正義の観念が人を動かす力は効率や合理性よりはるかに強い。金銭に命を賭ける人はいないが、国家のために死ぬ人は多い。こうしたパラドックスを説明したのも、マルクスだった。

マルクスは、人々の語る正義の背後に政治的なイデオロギーを読み取る方法論を編み出した。本書はそれをルイ・ナポレオンに適用した事例研究で、レヴィ=ストロースの愛読書だった。デリダは、本書が彼の方法論の先駆であることを認めている。「人々は自分自身の歴史をつくる。だが、思うままにではない」という本書の有名な言葉は、「脱構築」の見事な定式化である。

マルクスのイデオロギー分析は、しばしば「土台が上部構造を決定する」とか「階級的利害が観念を生み出す」と解釈されるが、本書を読めば彼がそういう通俗的な図式に依拠していないことがわかる。彼が人間の行動を規定する要因として指摘したのは、デリダもいうように夢魔である。人々を動かすのは経済的利害ではなく、彼ら自身も意識していない物語なので、状況が変わっても驚くほど変わらない。

これが菅首相や日弁連の会長が、学生時代の正義感をいつまでも持ち続ける原因である。それは彼らが主観的に善意であるかどうかには関係なく、むしろ善意であればあるほど厄介だ。打算にもとづく主張は形勢が不利になれば変更するが、正義と思い込んでいると死ぬまで変えないからだ。社会主義が崩壊しても「あれはスターリンが悪いので、『真のマルクス』は正しい」などと際限なく補助仮説を付け加えて「説明」する。

こうした夢魔を淘汰するのは論争ではなく、戦争である。ルイ・ボナパルトを生み出したプチブルが没落するとともに、彼も没落した。柄谷行人氏も解説で指摘しているように、民主主義が「主権者」としての国民の意志を代表するというのはブルジョア社会の神話であり、イデオロギーは武力闘争によってしか転覆できない――というのがマルクスの「プロレタリアート独裁」の理論である。

政治的な戦術としてどうかは別にして、この発想は今でも斬新であり、イノベーションが「創造的破壊」によって生まれる理由を説明している。菅首相の古臭い温情主義は、団塊世代のイデオロギーを代表しており、それがいくら矛盾していても、言葉による説得で変えることはできない。旧秩序は、彼らに搾取されている新しい世代が闘いによって転覆するしかないのである。