菅首相の「第三の道」や神野直彦氏の「強い社会保障」に共通にみられるのは、マルクス主義の影響である。浜田宏一氏の本にも「日本資本主義論争」が出てきて驚くが、彼らの世代まではマルクス主義の影響は圧倒的で、団塊世代ではマルクスと心中して人生を棒に振った人がたくさんいた。彼らに共通しているのは、資本主義が必然的に分配の不平等を生み出すので、それを政府が是正しなければならないという平等主義だ。

しかし実は、マルクス自身は「分配の平等」を主張したことは一度もない。それどころか、彼は『ゴータ綱領批判』でこう主張しているのだ:
権利とは、その本性上、同じ基準を適用するということにおいてのみ成り立ちうる。しかし不平等な諸個人は、同じ基準によって測定できるが、それはただ彼らを同じ視点のもとにおき、ある特定の側面からだけとらえる限りでのことである。[・・・]これらの欠点のすべてを避けるためには、権利は平等である代わりに、むしろ不平等でなければならない
マルクスは「平等の権利」や「公正な分配」などの言葉を「時代遅れの決まり文句のがらくた」と決めつけ、政府が所得再分配に介入すべきだとする社会民主党の綱領を「生産様式を変えないでその結果だけを変えようとするごまかし」と激しく批判した。これはリバタリアン対コミュニタリアンの図式でいえば、ノージックよりも右(左?)のリバタリアンであり、アナーキズムに近い。

これはGrayも指摘するようにハイエクと似ているが、マルクスのほうが過激だ。ハイエクもフリードマンも最小限度の所得再分配は必要だと認めたが、マルクスはそれも認めなかった。来るべき自由の国では、ブルジョア社会の非効率性(社会的な生産と生産手段の私有の矛盾)が解消され、「爆発的な富の噴出」によって稀少性は解決すると彼は想定していたからだ。『共産党宣言』で、グローバル資本主義がローカルな旧秩序を徹底的に破壊した延長上に理想の社会を展望した彼は、ラディカルな「市場原理主義者」だった。

残念ながらマルクスの予想は間違っていたが、彼の論理は一貫している。それは徹底的に自由で効率的な生産を行なえば、分配の平等は問題ではなくなるということだ。マルクスの構想した未来社会では国境もなくなるので、全世界の労働者が自由に地球上を移動することになるが、日本とバングラデシュの労働者の「平等」は問題になりえないし、それを再分配する政府も存在しない。菅首相のような「一国平等主義」は、プチブル的な俗流マルクス主義にすぎないのだ。

他方、ハイエクやフリードマンは個人の自律性を疑わなかったが、マルクスは「個人的所有の再建」によって人類が共同存在(Gemeinwesen)に回帰することを理想とした。この点ではTaylorも指摘しているように、マルクス(というより本来はヘーゲル)はコミュニタリアンに近い。

このようにマルクスの思想は、意外に(よくも悪くも)モダンであり、今なお乗り超えられていないベンチマークである。通俗的な誤解を清算し、一人の思想家として彼を再評価することは、資本主義を考え直す上で避けて通れないように思われる。