仮面の解釈学サンデルなど英米のコミュニタリアンの「合理的個人」への批判は、大陸ではニーチェやハイデガー以来つづいてきた形而上学批判の焼き直しである。彼らが最近ようやく発見した「負荷なき自己」や「本質の現前」のドグマは、日本人とはもともと無縁なものだ。本書は、世阿弥などのテキストをポストモダンの目から読みなおすことによって「日本語による哲学」を実現した名著の復刊である。
舞に、目前心後と云事あり。「目を前に見て、心を後に置け」となり。見所より見る所の風姿は、我が離見也。然れば、我が眼の見る所は我見也。離見の見にはあらず。離見の見にて見る所は、即、見所同心の見なり。其時は、我姿を見得する也。
これは世阿弥の『風姿花伝』の中の有名な「離見の見」についての記述である。演技を行なうときは自分の眼で見る「我見」ではなく客席からの「離見」によって見るべきで、それによって観客と一体化する「見所同心」の境地に達するという言葉は、西洋的な主体の概念になじんだ者には難解かもしれないが、自己と他者をことさらに区別しない日本人にとっては自然な発想である。

レヴィ=ストロースは離見の見を「はるかなる視線」と訳し、離れた文明の側からみずからを見る文化人類学の思想の表現だと考えた。能と同じように「未開社会」の儀式で不可欠な仮面も、個人の固有性を消去して<おもて>によって全員が同一化する装置である。それは仮想空間で、個人がハンドルネームという仮面をかぶって匿名化する現代に通じるものがある。

しかしこれは「本来の自己」が社会的な仮面をかぶっているのではない。逆に<おもて>とは、自我と世界、自己と他者との未分化な世界から、同一性と差異性が<かたどり>を得て分化する過程にほかならない。<おも>は「思い」や「重い」の語幹である。西洋では思考は内面の行為であり、それが表面を意味する言葉に通じるのは奇妙だが、<おも>の原義は「主な」つまり世界の中心である。思考は世界の中で間主観的に形成されるものであり、モナド的な自我の概念は近代西欧以外の文明圏にはない。
<おもて>とは、<主語とならない述語>であり、また<意味されるもののない意味するもの>である。<おもて>とは、またカオスの根源的な不安から意味をもったコスモスがたちあらわれ、<おもみ>と<おもひ>として<かたどら>れ、<かたり>出るはざまそのもの、対象化されえない述語面が<声>を根として自在な変身のうちに<かたり>出、<かたどら>れるはざまそのものにほかならない。(本書旧版p.18)
われわれのいま直面している不安の根源は、このような自他の一体性を保証していた自然なコミュニティが失われ、「主体性」や「自己責任」を求める市場メカニズムの圧力が強まっていることにある。コミュニタリアンも指摘するように、こうした不自然な秩序が人々のストレスを強め、紛争を増やすことは明らかだ。しかしアメリカにはもともと戻るべき自然な共同体などなく、日本でもふるさとが失われる傾向は不可逆である。

こうした文明的な変化を「いのちを守る政治」と称するバラマキ福祉によって阻止できると考えた鳩山政権は、時代の幕間にあらわれたピエロだった。乗数効果も知らないくせに「第2のケインズ革命」を呼号する菅首相は、さらに世界の笑いものになる可能性が高い。日本の直面している危機はもっと深く、その答は見えていないのである。