孤独なボウリング―米国コミュニティの崩壊と再生「アゴラ」で紹介したサンデルの『これからの「正義」の話をしよう』はアマゾンでベストセラーの第1位になり、品切れになった。それほどとっつきやすいとはいえない法哲学の本がこれほど売れるのはNHKの番組のおかげだろうが、これをきっかけに日本でも下らない「格差社会」論や「市場原理主義」批判が終息して、自由や平等についてのこれまでの成果を踏まえた論争が行なわれることを期待したい。


鳩山政権のバラマキ福祉路線は、80年代にリバタリアンから攻撃されて姿を消したアメリカの民主党の「大きな政府」の焼き直しである。政府がアドホックに福祉支出を増やした結果、財政赤字とインフレでアメリカ経済はボロボロになった。政府に「平等」や「正義」の基準を決める権限はなく、その役割は「最小国家」に限られるべきだというノージックの主張は、レーガン政権以降の小さな政府の理論的基礎になった。

しかし90年代以降、アメリカ経済の復調とともに所得格差が拡大し、コミュニティの崩壊が問題になった。そういう状況を踏まえてリバタリアンに対するコミュニタリアンの反論――その骨格はサンデルがやさしく説明している――が出てきた。それに実証的基礎を与えたのがソーシャル・キャピタルの研究であり、本書はその代表作である。原著が出たのは2000年だが、コミュニティの崩壊は日本の「イマココ」の問題だ。

イタリアの政治についての詳細な研究で著者が明らかにしたのは、ソーシャル・キャピタルが「均衡選択」の役割を果たしてコミュニティの規範を支えているということだったが、本書ではさらに詳細な実証研究にもとづいて、アメリカの社会でソーシャル・キャピタルが失われつつあることを明らかにしている。かつて町内で開かれていたボウリング大会がなくなり、PTAやボランティア団体が衰退して、個人が家庭に閉じこもる傾向が強まった。それとアメリカ社会の荒廃は軌を一にしている。

しかし著者は「グローバリズムが古きよき共同体を破壊した」といった図式的な結論は出さず、膨大な社会調査によってその原因をさぐる。経済的な要因はそれほど大きくなく、最大の要因は世代の変化である。コミュニティに愛着をもつ市民意識の強い世代が、テレビやインターネットによってつながる子や孫の世代に交代することによって、ローカルな人間関係が希薄になった。アメリカ人は、トクヴィルの見た孤独な個人に回帰しているようだ。

サンデルやパトナムの問題は、これからの日本の問題である。「無縁社会」の中で人々は「おひとり様」になり、衰退してゆく経済の中で否応なくGDPに代わる幸福の尺度を考えざるをえない。擬似コミュニティとして機能していた会社が弱体化し、財政にも余裕のなくなった状況では、「地方切り捨て」や「福祉切り捨て」は避けられない。すべての人に幸福を約束した民主党政権が破綻した今では、何を捨てて何を守るかを真剣に考えなければならないのだ。そのとき大事なのは、サンデルもいうように単純化された(大衆受けする)「正義」を振り回さず、問題を多面的に考えることである。