2010年04月13日 01:20
科学/文化

無縁・公界・楽

無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和 (平凡社ライブラリー (150))NHKの「無縁社会」という特集が、大きな反響を呼んでいるらしい。グーグルで検索すると、129万件も出てくる。私もちょっとそれにコメントしたら「変節したのか」とか、逆に「やっとお前も市場原理主義の弊害に目覚めたか」といったコメントが寄せられた。それぐらい、この問題は日本人の琴線に触れるのだろう。

人間は生物学的には個体として生まれ、個体として死ぬ「無縁」な存在だが、それは個体群のメンバーとしてしか生存できない。そこには、個体としての生存と集団防衛の矛盾という群淘汰の問題がある。このパラドックスによって多くの悲劇が生まれ、多くの文学が書かれてきた。

最近では、この問題は社会科学でもコミュニタリアニズムとかソーシャル・キャピタルなどという形で、学問的に論じられるようになった。鳩山首相の「新しい公共」円卓会議の座長になった金子郁容氏は、私の博士課程の指導教官だが、彼もご存じのようにこれは人類の永遠の問題で、簡単な答はない。

この問題は、ともすると「共同体にがんじがらめになっている日本人をいかに個として自立させるか」という近代主義的な形で設定されるが、本書はこの前提を疑い、日本人の中には共同体から自由な無縁の伝統もあったと主張する。公界や楽は西洋の「アジール」と似ていたが、後者が都市国家として近代社会のエンジンになったのと対照的に、日本の楽は領主に利用されたあげく弾圧された。

こうした網野の説が、実証的な歴史学の検証に耐えるのかどうかは不明である。人口の圧倒的多数が農民だったという事実は否定できない。網野の愛する無縁の民は、多くの芸能や文化を残したかもしれないが、一貫して少数派だった。むしろ彼の関心は、個と全体が分化する以前の原始共同体にあったのかもしれない。「網野の原体験はザスーリチ書簡なんだよ」と、彼の甥である中沢新一氏はいっていた。

人間は個体であると同時に集団の部品であり、ノマドであると同時に定住民でなければならない。この二律背反は、どんな社会でも解決できない。NHKが繰り返している情緒的な「無縁社会」キャンペーンは、へたをすると「伝統的共同体の再建」を主張する老人新党や厚労省の家父長主義に利用されて、もともと無縁な(そしてそれを望む)ノマドの自由を奪う結果になるのではないか。



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コメント一覧

  1. 1.
    • あおき
    • 2010年04月13日 01:52

    若者だけの国と老人たちの国にわけて互いにやりたいようにやれればいいのにと思います。無縁社会がこれほど取りざたされるのは、日本語を話す民族には日本以外に逃げる場所がないからでは。イギリスだとアメリカやオーストラリアがある。スペインだと南米諸国がある。
    都市国家のイタリアは統一されましたが、統一したイタリアは幸せになりましたかね・・・。

  2. 2.

    マスコミってのは勝手なもんです。
    ちょっと前までプライバシーだの個性だのと言って、「無援で生きていくのがカッコイイ」的なライフスタイル・ファッションを称揚していたのに、今頃になって何言ってるのと思います。
    戦後一貫して地方から都市へ人口を移動させ、工業化をすすめ、ニュータウンを建設して人工的な居住地に核家族で住む事を続けてきた訳で、今になって「昔の共同体が。。。」とか言われても、「だから何?」としか言えません。
    私は介護の仕事をしてますが、高度成長期に建てられた団地ほどヒドイ建物はないです。階段は急で狭い、エレベーターもない、行き来しにくく内部は段差だらけ。。。年を取ったり病気になる事を全く考ずに建てた「健康な労働者の合宿所」です。
    古い共同体出身の人達が団地を建てて喜んで住んだ。
    つまり共同体なんて何とも思ってなかった人が昔から大多数だった。そういう人が大多数だったから今があると言う事で、「かけがえの無い皆が大切にしていた物が失われた」との印象を与える伝えかたは完全に間違いだと思いますね。

  3. 3.
    • kimukimui
    • 2010年04月13日 16:39

    >私もちょっとそれにコメントしたら「変節したのか」とか、逆に「やっとお前も市場原理主義の弊害に目覚めたか」といったコメントが寄せられた。
    噴出しました。お勤めご苦労さまです。
    情緒性の持つプラスの側面も見落としてはいけないように思いつつ、目下は巷に溢れる情緒攻撃・感情攻撃に対する防衛能力をこちら側が備えないといけないですね。
    NHKは、一方でMichael SandelのJusticeのような番組も放映しているので、他局に比べれば少しバランスが取れているようにも思います。

  4. 4.
    • landscape04
    • 2010年04月13日 17:36

    人間も動物なんで、個体だけでは、生きづらくなれば(危機がおとずれれば)勝手に共同体ができると思います。
    災害などもそうですし、革命もそう、ナショナリズムも敵(危機)が在るからその考え方が在るわけで。
    仮に個人のみで生きれるなら共同体は足枷にも成り得るわけで、豊かな日本(今までの日本)で共同体が少なくなったのは当たり前ではないでしょうか?
    もし意図的に共同体を生み出したいなら、敵を作る以外ないと思います。

  5. 5.
    • ikuside5
    • 2010年04月13日 21:42

    NHKのこの系統の特集は、以前は「孤独死」という題だったですよね?同じような取材を、今度は血縁関係などの希薄化の問題にして特集しなおした、そんな感じですかね?葬儀に参列する人がいないまま儀式が行われ火葬されるというのも普段はちょっと見られない光景ですし。
    あの火葬の光景を見ると、むかし祖父に聞いた、いわゆる「村八分」の残りの二分は葬儀のことだったとかの古い話を思い出します。参列する人がだれもいない葬儀というのは村落共同体ではありえなかったにしても、一方で村八分もなくなったようなので、幸せなことだと思いますね。

  6. 6.

    中国では親子、親族の関係が歴史的にはるかに密なので、高度成長期の現代でもこの絆には強いものがあります。これが中国経済、特にベンチャーや起業を支えている経済的な底力であり、国が大きな負担をしなくても社会保障が何とか破綻しないのです。アラサーの私も、もし結婚できなくても将来は中国で母方の親類たちに頼れるという気持ちがあります。
    日本にはもともと「風来坊」という伝統が長く存在したので、フーテンの寅さんがあれだけ社会に受け入れられる素地はもともとあったのだと思います。そういう伝統とは全く別に、高度成長期に田舎から都会に出てきた数多くの人たちが、いつの間にか「都会人面」をして田舎の老父母や親戚を忘れ去った事がこの「無縁社会」の序幕だったのでしょう。そういう人たちの二世三世が、いま無縁社会に突然恐怖を感じたからNHKのあの番組が話題になるんじゃないでしょうか。
    老人の面倒は国が見るべきだなどとタワゴトをいう「無縁仏予備軍」が社会保障費ばかり膨張させ赤字国債のツケを先送りしてる事の結末は明白なのに、なぜ日本人はダチョウが砂に頭を突っ込むように目を開かないのか、無縁社会は目の前にあるのになぜ父母や親類を大切にしないのか、わたしにはサッパリわかりません。
    長年の不作為と怠慢によって切れた絆は、少々のエネルギーでは元に戻るわけがありません。人は象のように、死期が近づいたら富士山の樹海とか東南アジアのジャングルに分け入って消え去るしかないでしょう。

  7. 7.
    • jajouka
    • 2010年04月14日 03:33

    それほど多くの網野さんの本を読んだわけではないですが、
    その中世史の掘り起こし作業のなかには、意外と自由だった「百」姓という概念があったのでは?と思います。
    生産の石高として納税する量は少ない村でも、同じ人間が交易や工業等を自由に行っていて多額の金貸しを行っている等記録を見つけてきて、正史に現れない意外と自由あふれる周縁の風景を
    描く意図があったと理解しています。(間違ってるかもしれないけど)
    近世には共同体に簡単に飲み込まれていってしまってますが。
    情緒的でもなく、浪漫主義的でもない自由な個人が集積した共同体を描き出す構想を語れると日本の未来も明るいのになぁ。でも人間である以上難しいですね。

  8. 8.
    • tk856331
    • 2010年04月14日 04:13

    仮設 愛=loveー恋とすると愛は群れを作る本能であり時間的共生である。
    群れを作る本能
    人間は群れを作る動物であるから群れを作る本能を持つ。仲間をつくる本能である。孤独は死を意味する。弱い敵は攻撃されるからだ。
    共生原理
     同じ草食動物でも食べる部分を変えて住み分けをしている。足の速い馬は消化の良い部分。牛は四つの胃を持ち残りの消化の悪い部分を発酵して利用する。身体の小さい羊は牛や馬の食べ残した草を食べる。自然界は余りに競争が厳しく競争をしていると生き残れない。競争を避ける仕組みが存在する。これが共生原理である。
     共生には時間的共生と空間的共生がある。時間的共生とは順位であり、空間的共生とは縄張りである。
    時間的共生
     群れが団体行動をするには順番が必要である。歩く、水を飲む、餌を食べる、全て順番である。時間をずらすことで競合を避ける。これが時間的共生である。牛はあらかじめ「順位づけ」という相撲の様な行動をとる。人間にもこの順位が存在する。
    ○順位には上位と下位、順位不明が存在する。
    ○順位が不明の場合、順位を決めるために競争心を持つ。弱肉強食の競争原理ではない。
     これが子供が競争が好きな理由である。
     この競争は信頼や友愛を生み絆が深まる。この競争が教育を可能にする。敵は攻撃する。
     ○下位は上位を敬愛し依存する。
     これが子供が先生や親を好きな理由。
    ○上位は下位を慈愛し養護する。
     これが先生や親が子供をかわいいと思う理由である。

  9. 9.
    • bobbob1978
    • 2010年04月14日 19:30

    「もし意図的に共同体を生み出したいなら、敵を作る以外ないと思います。」
    これまでの敵は外部にいましたが、これからの敵は心の中に潜む「孤独」になるのでしょうね。その孤独を克服するために新しい共同体が生まれるでしょう(欧米では宗教が既にその役割を果たしていますが)。

  10. 10.
    • landscape04
    • 2010年04月14日 19:42

    >ジャオ様
    日本が親を大事にしないような書き込みは少し異論があります。
    大きく分けて3つの要素があると考えられます。
    まず一つ目は
    江戸時代、跡継ぎとなる長男はそのまま田舎に住みました。しかし田舎で生きていけない次男などは都会へ行き住み着いた歴史があります。すなわち都会とは田舎で住めない者が行く所でした。
    高度成長期に入り、農業衰退などがあり、同じように田舎で住めなくなった若者が都会に進出して行きます。
    これは決して親を大事にしないからではありません。生きていく為の本能です。
    二つ目には民族性の違いです。
    日本人は農耕民族です。農耕民族は騎馬民族などに比べ土地信仰が強いものです。親世代は今まで生きてきてるわけで、生きる為に田舎を離れる必要はありません。
    この土地信仰こそ農耕民族が生きる為の本能であり、子供が全員都会に行っていていて例え一人だろうと、田舎を離れない原因だと考えられます。
    なので決して親子関係が希薄だからではないと思います。
    三つ目は、人間は忘れる生き物です。
    "今"生きていく為の事で別に支障が無い危機に対しては、忘れようとします。忘れるといっても本当に忘れる訳ではなく、考えなくなります。これはストレスから身を守る為の本能であります。
    以上三つの要素から今の現状があると私は考えています。
    日本人には神道があります。神道は儒教の影響も受けていますので、血族や家、親を思う気持ちは同じだと思います。
    あと中国は親を都会に呼びますが、それは民族性と格差に関係があると考えています。

  11. 11.
    • gyhdb049
    • 2010年04月14日 21:49

    室町時代のような中世日本では、末法思想の流行で仏教的な無常観が流布していたから、権力や運命のような個の人間の力の及ばない事物に対する一つの開き直りのような自由の息吹に満ちた思想が、生まれたことは十分推測できます。
    無縁・公界・楽とは、俗界と縁を切り自然に近接した超越界に往生楽土を夢見る、と読み説くことも可能ですが、ただ、想像力の自由から夢見ることの可能なビジョンだとしても、それらは、たとえようもない厳しい現実が前提されてのことだとすれば、………。
    高齢化社会を控えた現代の孤独死は日本だけではないし、無縁の死を通して行政の貧困を論うことはできますが、逆に、そのような意識を持つことのできるほど、現代は、隅々まで社会の公共的管理の目が開かれているということでもありましょう。だから、感傷に流れすぎては本末転倒のようにも思えるのです。
    豊かさも貧しさも事物の表裏です。豊かさも奢ってしまえば貧困に繋がるし、貧しさもその世界を掘り下げれば豊饒な世界が湧き出てくるかもしれません。
    行政の問題とは別に、たとえ、胸に迫る感情があっても、孤独死が家族に看取られる死より哀れとは限らない。要は、各自の人生に対する心の在り方で決まるのでしょう。
    また、生者の安易な不安感や悲哀を掻き立てるだけなら、死者に非礼というより見当違いかもしれない。むしろ、私達の明日の運命でもあるかもしれない人間本来の非情な生を全うしてくれた、声なき死出の旅立ちをされた方々に合掌するほかはないように思います。

  12. 12.

    市場原理主義と共同体の崩壊は何にも関係ないように思います
    そこまでそのせいにされたら困りますね。

  13. 13.
    • lvdrbird
    • 2010年04月15日 00:46

    この本に書かれている無縁の民はNHKの「無縁社会」の人たちとは違うような気がします。ここでの無縁の民は共同体にはなじまない、もしくは弾かれたアウトサイダーなんでしょうね。ただ、共同体に属さないがゆえに個性的な文化を生み出したというところは注目すべきではないかと思います。それから無縁の民のいるところは共同体からの避難所になっている。そういう場というのは現代でも必要ではないかと思います。

  14. 14.

    交通手段が発達してコミュニティが日本全国に広がったのに、家族の範囲が徒歩時代のままというギャップが無縁を作るんじゃないんですかね。確かに交通費は高いけどひと月に一度くらいのペースなら何とかなりそうだし、通信手段も発達して連絡の取り様もあるのに、孤立無縁になるのは、理由の如何はともかく、自ら選んだ結果になるのでは。しょうがないと諦めるのも自分で選択したことなんだし。
    おはようと言ってもらいたかったら、こちらからおはようと言わないと。twitterでもいいから。





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