ヨーロッパ精神史入門 カロリング・ルネサンスの残光
AIや機械学習の進歩で、人間の知的能力の限界が議論になっている。この問題について、経験から「帰納」によって理論をつくることができないことを明らかにしたのはヒュームだが、帰納に代えてアブダクションという概念を提唱したパースの発想のヒントは、中世の哲学者ドゥンス・スコトゥスだった。

スコトゥスなどといっても誰も知らないだろう。ウィリアム・オッカムとの普遍論争は世界史の教科書にも出ているが、スコラ哲学のくだらない観念論としてしか知られていない。しかし著者は、この論争をパース以降の記号論の観点から再評価する。

スコトゥスなどの実在論(realism)は「犬」という本質がまずあって、それがポチやタロウという個体に具現されると考えたが、オッカムなどの唯名論(nominalism)は、存在するのはポチという個体だけであり、犬という普遍はその集合の名称にすぎないと考える。

しかしポチやタロウの集合が犬だというのは、論理的にはおかしい。ポチを犬という集合の要素として分類するためには、犬の定義がわかっていなければならないが、その定義を決めるには、ポチは犬だがミケは犬ではない、などと分類しなければならない。それには、まずポチが犬かどうかわかっていなければならない

・・・といった堂々めぐりが100年近く続き、最終的には唯名論が近代哲学への道を開いた、というのが標準的な理解である。個体だけを実在とみなし、普遍的な絶対者(神)を否定する唯名論は、実証主義や功利主義などの啓蒙思想の元祖だった。

普遍的な法則はなぜ存在するのか

それは本当だろうか。ポチやタロウをいくら調べても、そこから犬という本質を帰納することはできない。犬という概念は、人間があらかじめ設定するのだ。近代科学は物体を原子に還元する唯名論だといわれるが、原子を支配する法則は物体を超えて実在するというスコトゥスの思想の延長上にある。

普遍論争は今も続いている、と著者はいう。プラトン以来の「本質の現前」としての存在論を否定したニーチェ以降、ポストモダンに至る20世紀の思想の主流は極端なノミナリズムだった。最近の新実在論は中世のリアリズムに回帰したようにみえるが、それは理性の普遍性も否定し、世界を感覚に還元するニヒリズムである。

しかし近代科学は、全宇宙に通じる普遍的な法則が人間の意思から独立に存在すると信じる実在論であり、この法則は部分に還元できない。ばらばらの部品が偶然集まって時計ができないように、ばらばらの物体が集まって宇宙はできない。普遍論争は終わっていないのだ。