近所の本屋で、このところずっと『超訳 ニーチェの言葉』という本がベストセラーのトップだ。発売1ヶ月で16万部を超えたという。立ち読みした感じでは、彼の箴言集から(版元のビジネスである)自己啓発に関連する言葉を拾い出したようだが、これはほとんど偽書である(リンクは張ってない)。ニーチェが口をきわめて攻撃した敵は、史上最大の自己啓発カルトであるキリスト教だったからだ。「超訳」ではなく、原文に忠実に訳すと(強調は原文)、おお、私の兄弟たちよ! いったい人間の未来にとっての最大の危険は、どういう者たちのもとにあるのか? それは善にして義なる者たちのもとにあるのではないか? すなわち「何が善にして義であるかを、われわれはすでに知っており、さらにそれを体得してもいる。このことで今なお探究する者たちに、わざわいあれ!」と口に出し、心に感じている者たちのもとにあるのではないか?(『ツァラトゥストラ』)
これまで人間をおおってきた災いは、苦悩することそのものではなく、苦悩することに意味がないことだった。――そして禁欲的な理想は人間に、ひとつの意味を提供したのである! これが人間の生のこれまでの唯一の意味だった。[・・・]禁欲の理想が人間にこれほど多くのことを意味するということのうちに、人間が意志するものだという根本的な事実が、人間の<真空への恐怖>があらわに示されている。人間の意志は、一つの目標を必要とするものだということ――何も意欲しないよりは虚無を意欲することを望む者だということである。(『道徳の系譜学』)
キリスト教はあらゆるできそこないの人間、暴動を起こしたくてうずうずしている連中、失敗した輩、人類の中の屑やがらくたを、この手で自分のほうに手なずけてきたのである。魂の救いとは、ありていにいえば、「世界は俺を中心にして回っている」ということなのだ。「万人の平等権」という教えのもつ害毒――この毒を徹底的にまき散らしてきたのもキリスト教である。(『反キリスト者』)
道徳はできそこないの者どもがニヒリズムに陥らないように防ぐが、それは道徳が各人に無限の価値を、形而上学的価値を与え、この世の権力や階層とはそぐわない秩序のうちに組み入れることによってである。(『力への意志』)
道徳とは、今日のヨーロッパでは畜群道徳である。(『善悪の彼岸』)ここでニーチェは、「何が善にして義であるかを知っている」と自称して人々を教え、<真空への恐怖>を埋めて救済するキリスト教の教説を、激しく攻撃している。ニーチェがポジティブな哲学者だというのは間違いではないが、それはプラトン以来の「ヨーロッパのニヒリズム」を全面的に否定した果てにたどりついた生の肯定であり、この本に書かれているようなお手軽な処世訓の対極にあるものだ。
人々に「生の意味」を与え、「あなたの年収は10倍になる」などという幻想を売り込む商売は、歴史上さまざまに形を変えて広く続いてきたし、これからも続くだろう。しかしそういう自己啓発を信じるのは無知な「畜群」だ、とニーチェは軽蔑し、彼らを飼い慣らして不幸に甘んじるように教えるキリスト教の欺瞞を攻撃した。それをつまみ食いして「人生を賢く生きる言葉」として紹介した本が売れる日本には、まだ絶望が足りないのだろう。
ニーチェの本質を知りたければ、こういう愚劣な本ではなく、ハイデガーの『ニーチェ』をおすすめする。これは講義録なので読みやすく、後期ハイデガーの代表作でもある。




池田信夫『もし小泉進次郎がフリードマンの「資本主義と自由」を読んだら』
田原総一朗『生存への契約 誰がエネルギーを制するか』
池田信夫『イノベーションとは何か』
田原総一朗『日本の官僚 文部省・建設省・厚生省・郵政省編』
西和彦『ベンチャーの父 大川功』
3・11後 日本経済はこうなる!
古典で読み解く現代経済
日本経済「余命3年」:財政危機をどう乗り越えるか
新・電波利権
宗教を生みだす本能
福田恆存 思想の〈かたち〉
中国化する日本
Thinking, Fast and Slow
Debt: The First 5,000 Years
Atomic Awakening
Power to Save the World
ジョーンズ マクロ経済学
放射能と理性
気候変動とエネルギー問題
ゲーム理論による社会科学の統合
エネルギー論争の盲点
Rational Choice
丸山眞男――理念への信
デカルトの誤り
Energy Myths and Realities
Civilization: The West and the Rest
The Enlightened Economy
Violence and Social Orders
コメント一覧
いつも?勝手に楽しく勉強させていただいております。

絶望が足りないというご指摘、わたし?の意識?とか呼ばれている奴に、
とても優しく染み渡ったと思います。信じていいんですよね?
まだ混沌ではないのだと。
まだ混沌には先があって、だからこそまだ伝染病にも対抗できるのだと。
真の知識人たちが残してくれた言葉すら!必要ともされない世の中が、
まだ真の絶望ではないのだと。
科学者が科学者の言葉を知らず、歴史を知らず、
信徒が聖人の言葉を知らず、写像の教典の言葉しか知らず、
未だにあらゆる偶像崇拝から脱却できない今の世の中が、
まだ真の絶望ではないのだと。信じます。
>池田先生
について、「ムムッ、これは偽書に近い」なんておっしゃらなくてもいいんじゃないですか? 池田先生は心からニーチェがお好きなのだと思います。
こんなにエネルギーを使って実証しなくても、大体「超訳」なんてタイトルに入ってる本はキワモノに決まってるじゃないですか。超訳「論語」とか超訳「古事記」とか超訳「源氏物語」とか・・・
名翻訳家だった中村保男先生が、私が学生だった頃に「現代翻訳考―超訳・名訳・誤訳を読む」という本を出されました。その中で当時「超訳」とタイトルにつけて売り出していたシドニー・シェルドンの「真夜中は別の顔 (The Other Side of Midnight)」の翻訳本について、「超訳」は翻訳かということを論じて、こんな章立てで書いておられます。超訳の正体、誤訳と書き変え、歪められる原作、行き過ぎの意訳、超訳の難しさ・・・
良心的に「超訳」しても原本から離れてしまうのですから、まして、私の大好きなフーテンの寅さんが縁日で「サー持ってけドロボウ!」といいながら売っているような怪しげな本
秋
大学卒業旅行でウィーン大学のマッハの銅像に出会い涙しました僕は池田さんの大ファンです。
すいません、何べんも書き込んで。
というかキモい
というか・・・
)
↑juko_7さん、大体、マッハなんてPRIDEの桜井マッハだと思ってた私ですから、ウィーンまで行って涙するなんてすごい
先生のファンですなんて告白しないでもいいから、もっとメリハリつけてやりましょうね
日本人の男の子なんだから日本男児なんでしょ!(実はヤマトナデシコだったりして・・・
これだけキリスト教批判を行っても、社会的抹殺をうけすに未だに本が残っていることがすごいと思います。
この本を読む気にはなれませんが、どんな人が買ってるのか興味はありますな
所詮、私もニヒリストなので(笑)
偽りのビートルズ
”ノルウェーの森”は、ビートルズの有名な曲で、村上春樹の同名の小説は、彼の代表作のひとつとなっている。しかしながら、原曲の中には、森についてのコメントはなく、ノルウェー製の家具という訳が、正解らしい。この誤訳、あるいは意訳ないし超訳を心地よく受け入れていた我々は、長年の翻訳文化に浸かっていた己の文化に懐疑の目を向けるべきだろう。基本的に翻訳を生業としてきた、西洋文化に対するおべっか使いが、村上春樹の本質を形作っていると考えているが、21世紀の初頭に、この偏狭の地のくびきを、我々は乗り越えるべきであるし、乗り越えようとしている。
ホントにすいません、何度もでしゃばって・・・
>長年の翻訳文化に浸かっていた己の文化に懐疑の目を向けるべきだろう。
日本の文化の流れは翻訳文化が主流です。というのは日本が圧倒的に強いところが「同化力」だからです。中国の文学でも哲学でも漢字でも、プロイセン型の刑法でもマルクス・レーニン主義でも、スパゲティ・カルボナーラの作り方だって「日本式」に「翻案」して同化してしまう力があります。これは日本の極めてユニークな特徴です。人間も、これだけ何千年に渡って中国人、朝鮮人、南方のマレー系、北方のツングース系などが流れ込んでいながら、全部がいつの間にか『日本人』になってしまうのは日本の持つ不思議な力です。
従って翻訳文化に懐疑の目を向けるのは結構ですが、それがケチな「愛国心」や「大和魂」と結びついて、狭い意味の国粋主義に至るのでしたら、それは日本の持つ力を削いでしまうことに他なりません。「己の文化に懐疑の目を」という主張は、第二次大戦中に野球のバッターボックスを無理やり「打者箱」と言わせた「言葉狩り」と「低次元の愛国主義」に向かっていくものと危惧します。
秋
一応厳密の定義で行くと、ニーチェいわく「ルサンチマン」による価値転倒や弱者の復讐心によって生じた勝敗のルール変更こそ、キリスト教的道徳の根幹にあるのであって、でも自己啓発は一応価値変更・ルール変更によって自尊心を勝ち取るのではなく、現実の世界で成功を勝ち取ることによって自尊心を得ることを目指すどちらかといったら「貴族的精神」になります。まあ、あーいうの読んでる人がどれだけ実際に成功していくかか疑問ですけど。つまりニーチェが言ったキリスト教的奴隷的精神と今の自己啓発の人らが大事にしているものは違います。池田さんはかなり大雑把なところで共通と括ってしまっていると思います。
勝間教とキリスト教の図式の類似性が面白いですよね。
ニヒリズムを超越した、デュオニュソス的ペシミスト(超人思想)の重要性(シェイクスピアのマクベスにでてくるマクダフのような)を説いたのかなと捉えてます。
漢字文化と黄砂
漢字文化の恩恵は、計り知れないものがあるけれど、新しい文化の創造のとば口に立つと自覚できるなら、大和言葉と、大和心の復権を構想する気概を持てと言い放つのも自由だろう。過去に立ち返るのではなく、国境の厚い壁が打ち崩されつつある今日より、未来に抜けて、己の文化に対して、再考を加えるのも、必要だろう。今日の黄砂は、環境汚染物質をはるばると運んできて厄介だが、有史以前から、日本の土壌に、豊かさを運んできた恩恵を忘れてはならないだろう。
大和心を人問わば、晴れ日に漂う黄砂のみかな・・・・・・。
Kikiextraさま、
「大和言葉と、大和心の復権を構想する気概を持てと言い放つ」のはもちろん自由ですが、それならご自分のお書きになった以下の単語をやまとことばに書き直してみてくださいませ。
恩恵、文化、創造、自覚、復権、構想、気概、自由、再考、黄砂、環境汚染物質、有史以前、土壌。
日本の中学や高校でやる「漢文」は中国語ではありません。あれは立派に日本語の授業なのです。中島敦の小説をお読みになればわかりますが、漢文書き下し文というのはれっきとした日本語の文体です。本居宣長に後継者ができなかったのは何故だか考えた事がありますか?
しきしまのやまとことはぞまほしける おのがまうすはからことなれど
からひと秋のよめる
偽りの独立 偽りの資本主義
日本の今日的現状を、白紙にすることは不可能だけれど、どう分析し、把握するかは、将来を見据える上できわめて重要だ。属国でありつづけ、最も成功した社会主義国とも揶揄され続けてきた。傀儡政権が、宗主国の路線を逸脱しそうになると、予定されていたように、スキャンダルが暴露され、政権は弱体化した。19世紀から20世紀初頭にかけて青息吐息だった中国は、経済大国へと変身を遂げ、外国の軍隊が国内に常駐することもなくなった。しかし、この国には、未だに強力な外国の軍隊が、同盟関係という美名の下に存在し続けている。存在理由など何もないというのがニヒリズムの出発点だとしたら、私は、あくまで、ニヒリズムに拘泥し続けるだろう・・・・・・・。
趙秋瑾さん、割り込んでもうしわけないですが、よく勉強しておられると思います。ときどき、驚かされますよ。
日本の漢文は白話ではありません。定義です。東アジアにおけるラテン語のようなものです。紫式部も、自分は和文だけでなく漢文も知っていると自慢したりしていますが、それは「定義」を読み書きする仕事もできるという意味です。
漢文は、夏目漱石や森鴎外もかなりやってます。近いところでは、三島由紀夫や澁澤龍彦がそうです。しかし、彼らは漢文で作品を書いていない。漢文で作品を書いても読んでもらえないという、単純な理由があったからでしょう。江戸時代も同じだったと思いますよ。
日本語は言文不一致です。そうである限り、漢文は残ります。私は、中国の文化大革命のようなものには反対なので、言文不一致を伝統として受け入れるしかないと思っていますが、なぜ日本語が言文不一致の言語になってしまったのか、いつも疑問に思ってもいます。定義と白話の影響はあったでしょうけど。
Jestemnekoさま、
日本で「漢文」というのは中国人にとっては「古文」なのです。もちろん「白話」ではありません。
私が言ってるのは漢文そのものではありません。「子曰学而時習之」を「子のたまわく学びて時に之を習う・・」とよむ場合です。
「隴西の李徴は博学才頴、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性狷介、自ら恃む所頗る厚く、賎吏に甘んずるを潔しとしなかった」これは中島敦の「山月記」ですが、ほとんど漢文の書き下し文に近い文体にせよ、これはこれで立派な日本語だと思います。
日本語が話し言葉、書き言葉におおきな隔たりができたのは、日本が外国の(中国の)文を咀嚼して日本文化としてしまったためです。決して悪い事ではありません。
日露戦争の時の乃木大将の漢詩が残っています。
山川草木轉荒涼
十里風腥新戦場
征馬不前人不語
金州城外立斜陽
韻もきっちり踏んでいて立派な作品です。日本人の漢詩は「日本文学」から仲間はずれなので、目にすることは少ないと思いますが、立派な作品がたくさんあります。
秋
趙秋瑾さん、乃木大将の漢詩は知りませんでしたが、日本の文豪は漢文に精通していましたよ。中島敦は若くして亡くなったのであまり作品を残していませんが、長生きしていれば文豪のひとりになったでしょう。その意味で、今の日本の作家にはろくなのがいません。私は、船戸与一さんと北方謙三さんのファンなのですが、三島由紀夫や澁澤龍彦とはタイプがちがう。今の日本の作家に三島や澁澤クラスはいないと思います。
日本語の言文不一致が中国の定義と白話の影響によるものかどうかは分かりません。趙秋瑾さんのような方が研究されたほうがよいでしょう。私が言えるのは、それが伝統である以上、日本から漢文がなくなることはないということです。そして、今の日本で漢文で書かれたよい文学作品が生まれないのは、作家の質が落ちたからだと思います。三島や澁澤が生きていれば漢文で作品を書いていたかもしれない。
余談ですが、私が文学作品を読むようになったのは今から20年ほど前に尊敬する経済人であった辻井喬先生に「文学を勉強しなさい!」というお叱りを受けたからです。今は、辻井先生も敵になってしまいましたw
覇王別姫
映画監督である陳凱歌の描いた、20世紀を駆け抜けた二人の京劇役者の愛憎に、それほどの感銘を受けたわけではなかったけれど、そこにたち現れる芸人達のすさまじいまでの芸人魂と、やや中国的な独自性を持った全編に流れる映像美に感服したのを覚えている。その完成度の高さに、鳥肌がたった。もともと、歌舞伎や、京劇のような大時代的演出の見世物を好きではなかったし、あの甲高いドラの音は苦手だったけれど、この映画は、私の異文化に対する偏見を氷解し、京劇や、その他の中国の芸能に対する敬意をもたらしてくれた。
ところで、漢詩をものするという行為は、教養人であるというシグナリングで、それ自体、社会の問題を表象していると思います。加えて、乃木大将のこの歌を拝見して、とても戦上手な大将の作品ではないな、と言うのが素直な感想です。
構造表記としての日本語に、意外な裏事情が?
大和言葉は、音がいのちで、文字として表記するすべを持たなかった。そこに、表意文字である漢字が流入し、漢字表記によって、大和言葉は万葉仮名のように表記され、時代が下って、かな文字ができたことで、日本語は、漢字とかなの構造表記になった。
そこでは、表記における表意形と表音形の連携が、すなわち、漢字とかなの形態的な親子関係のようなものができたと考えられる。要するに、漢字が親、かなは子である、と。
ところが、秀真伝(ほつまつたえ)のような文献が発見され、日本に固有の表音文字が作られていたということが一部の人達から主張されるようになった。(頑迷な学界ではまだ認められていないようだが)
ほつま文字の発見の大きな意義の一つは、大和言葉の言霊(ことだま)と言われる原姿は、ほつま文字で表記された48音に負っているということであり、かな文字の50音という日本語の音律が出来た理由は、漢字からのデフォルメで生成した、かなやカタカナの存在だけでは説明できなかったが、48音のホツマ表音文字の存在によって初めて説明できるようになった、ということであろう。
→松本善之助著、ホツマツタヘ上下(毎日新聞社刊)参照されたし。
gyhdb049さま、
ホツマツタエが偽書かホンモノかというのは、現代日本語の成り立ちを考える上ではどうでもいいことです。天照大神を「アマテラス」と書こうが、その古代文字で書こうが、Amaterasuと書こうが、АМАТЭРАСУとキリル文字で書こうが、文章の構造には影響しないからです。
日本語の発音自体は、第二次大戦前と後でも随分変わっていますし、それが50音であろうが48音であろうが、歴史の長さを考えれば誤差の範疇です。私が小学校の頃に総理大臣だった竹下首相は「結果」を「けっくゎ」と発音されていましたが、果の現代中国語の発音もguoであり竹下総理の発音に近いのです。このような発音を考えると、おっしゃるように48音であろうが50音であろうが、現代日本語の成り立ちを考える上では意味がないと思います。
秋
gyhdb049さん、人類はしゃべるより先に絵を描いたかもしれません。だとしたら、言葉より先に文字を発明してかもしれない。そのような説を唱えた言語学者もいたように思います。
日本語の特徴は原文不一致という構造です。誤解を恐れずに言えば、話し言葉が韓国語にして書き言葉を中国語にすることもできる。それが日本語なのです。
日本語を使うということは、話し言葉と書き言葉の翻訳作業を常に強いられるということです。頭の良くない人が日本人でいるのは大変ですよ。私など、あまり頭が良くないので、小さい頃は国語の成績が悪かった。国語の成績の悪さを算数の成績で補うのに必死でしたw
存在のほんの少しの重さ
宇宙に始まりがあったとしても、この世界に始まりがあったか、なかったかは、定かではない。それは、単に視差の問題だと言う方便もある。耐えざる不毛の無理解をものともせず、ツアラトストラは、幾度も地上に降り立ち、衆生に真理の一片を説き続けるであろう。永劫回帰こそ、およそ、到達しうる最高の肯定の様式と信じ、人間が復讐(ルサンチマン)から解放されることを信じて、悪天候ののちにかかる虹を求めて、飽くなき探究心と洞察力を我々に振りそぞき続けるだろう。商品化された言説が、真理の対極にあろうとも、彼はものともせず営為を自ら妨げることはない。そして、その事実は、私を勇気付けもする。なぜなら、彼の存在そのものが、ほんの少しの重さを、私に感じさせてくれるのだから・・・・・・・・。
御意見有難うございました。
私が言いたかったことは、日本民族の底に紛れもなく核となる文化(大和心や魂)があり、それがあるゆえに、維新も敗戦も乗り越えて来られたのではないか。だから、日本人はここしばらくの経済の低迷で自信を失っているようだが、難しい駆け引きの渦巻く政治経済の表の舞台だけではなく、文化という面から日本という国家を見直すことが時に必要ではないかということです。
もっとも、その日本文化の原典ともいうべき古事記、日本書紀のような古文書も、当時の権力によって事実が捻じ曲げられたり隠蔽されるようなことがあったのかもしれない。その意味で、記紀の原典ではないかと主張される秀真伝(ほつまつたえ)の紹介書を、日本人が自信を取り戻すためにも、時には読んでみるのも良いのではないですか、という、その程度の話です。
(漢字を国字にしてしまった第15代応神天皇以来~お先棒をかついだのが貴族と知識階級であり、云々 → 松本善之助著、ホツマツタエ正巻、p12から)
文字と言語のちがいくらいはっきりと理解しましょう。
そして、大抵の漢字が字訓と字音をもつことの意味も。
ついでに、漢字の起源である甲骨文字をつくりだしたひとびとが、
漢族の祖先ではないこともおぼえておいた方がいいかもしれません。
おまけ。
・万葉集、古今和歌集、後撰和歌集……和語率99%以上
・竹取物語、伊勢物語、源氏物語、枕草子……和語率90%以上
・大鏡、方丈記、徒然草……漢語率10%超。
・日葡辞書(1603年-1604年発行、約32,000語収録)
和語が78.7%
漢語が20.5%
・和英語林集成(幕末)
和語が73.9%
漢語が25.0%
外来語(「Botan ボタン」のみ)0.1%
漢語(いわゆる和製漢語)がふえたのは近代以降のできごとなんですね。
to 11
>それならご自分のお書きになった以下の単語をやまとことばに書き直してみてくださいませ。
>恩恵、文化、創造、自覚、復権、構想、気概、自由、再考、黄砂、環境汚染物質、有史以前、土壌。
すでに字訓がととのえられているので、
漢語の和語訳はそれほどむずかしくなさそうです。
一般になじむかどうかはわかりませんが。
hi_no_tamaさん、
>漢語(いわゆる和製漢語)がふえたのは近代以降のできごとなんですね。
たとえば「科学」は近代になって朱子学の教書から引用された言葉ですよね。近代の和製漢語はかなり漢文に依拠しているわけです。この先、新たな和製漢語をつくらなければならない場面もあるでしょう。漢文の素養は大事です。文学者が先導するしかないでしょう。趙秋瑾さんの肩を持つわけではありませんが、今の日本の文学者たちは怠慢なように思います。
それから言語は、とりあえず構造主義で考えるしかないでしょう。言文一致の言語であれば「差分」を意味生成原理にしてもよいと考えます。しかし日本語の場合、言文不一致なので複雑ですね。とくに政治の世界では気をつけないといけない。話し言葉が「翻訳」されることなく書き言葉に置き換わってしまいますから。
22のコメントですが、
漢語率10%超→漢語率10%強
とします。
to 23
それをいうなら、「漢文」ではなく「漢籍・仏典」でしょう。
「科学」についてですが、語のなりたちや、
そのシニフィエの変遷過程にかんがみて、
「引用」とはいえなさそうです。
固定的なシニフィエを有する熟語として借用したわけではありませんから。
「科学」を「science」の訳語として機能させたことに、
漢籍・仏典への通暁、それにしるされた思想はかかわっていないといえます。
ただ漢字をしっていればできることです。
要するに、
漢字(シーニュ)と漢籍(思想=過剰なシニフィエ)の癒着における恣意性の理解、
そしてその無関係化、つまり漢籍の捨象にこそ近代日本人の知的妙があったといえるでしょう。
勿論「経済」の様な例外もありますが。
hi_no_tamaさん、「科学」が漢籍で「恋愛」が仏典でしょうね。
日本語を使うということが、常に話し言葉と書き言葉の翻訳作業を強いられることであるとすれば、外国語の翻訳も同じようなものになるかもしれない、だから多くの外国文献が日本語に翻訳されている、漢文はその痕跡でもある、というのが私の仮説です。サイエンスを訳す場面で使用する日本語のシニフィアンは、何でもよかったのかもしれません。
シーニュはシニフィアンとシニフィアンの関係だけでなく、センテンスとセンテンスの関係でも生成します。そして翻訳は、シーニュを生成する作業でもあると考えます。ソシュールはそれを見ていなかったように思いますが、ウィトゲンシュタインは見ていたでしょう。しかし、さすがのウィトゲンシュタインも言分不一致言語まで視野になかった。言分不一致をラングとパロールのちがいに置き換えるのは間違いだと思うのです。文学者のみなさんには、漢文をしっかりやってほしいですね。
jestemnekoさん
言文一致、不一致に拘りすぎでは…。欧米流の合理的な考え方の基準である、話し言葉をスタンダードにするのは経済的効率や便利さからで、絶対的な基準ではないでしょう。福田恒存のように文語を復活させようとする立場なら文語もスタンダードになり、たとえば、けふ(今日)は文語基準では言文一致しています。つまり、口語を基準にするから、けふをkyoと発音するのは言文不一致なのであり、文語を基準にすれば、けふは、kyoと読んでも、けふなのであり、つまり、言葉は意味の塊として、けふは、きょうではなく、けふ、だから、言文一致していると考えるべきではないでしょうか。
見た目のかな文字の一音一音が個々のかな文字と対応していないから言文不一致というのは、口語の音声と表記の対応関係を基準にした言文一致という考え方を唯一不変の基準にした考え方です。つまり、文語の表記である意味の塊(文字群)と、その音群の対応関係という文語の言文一致の基準に立てば、けふ、は立派な言文一致の言葉になっていると思います。
gyhdb049さん、私が日本語の言文不一致にこだわるのは、それを知らないと政治が歪むからです。民間企業でも、会議で決めたことを文書化するとまったく別の決定になってしまうということがあると思います。政治の世界ではそれが日常茶飯事なわけです。与野党間の不毛な対立だけでなく、永田町と霞ヶ関のズレもそこからはじまる。私の見るところ、一部の政治家や官僚は、ラング=書き言葉、パロール=話し言葉、というふうに使い分けているように思います。厄介なことに、彼らは自分たちがインテリだと思い込んでいるところがある。たぶん、ソシュールなんかを知ってるつもりでいるのでしょう。
私は、日本語の書き言葉と話し言葉を、異なる言語体系として認識すべきであると思う。日本語は、書き言葉と話し言葉の間で、翻訳作業が常に伴う。そう考えないと、政治の歪みを是正できないでしょう。今は敵対しているのですが、私が尊敬する辻井喬先生も同じような考えをお持ちのように思います。
とりあえず、日本人は漢文をしっかり勉強したほうがいい、これが結論かなあ、、、