精神の哲学・肉体の哲学  形而上学的思考から自然的思考へ (学芸局Dピース)レイコフ=ジョンソンの訳者とマッハの専門家の対談ということで期待したのだが、ハズレ。前者がマッハを理解しておらず、後者がレイコフを読んでいないため、話がすれ違っている。計見氏は身体論ばかり論じ、木田氏は、それとは無関係に西洋哲学史をおさらいしているので、最後まで噛み合わない。

実は、マッハはレイコフの元祖だといってもよい。レイコフ=ジョンソンもメタファー概念の元祖として「ゲシュタルト」をあげており、この概念を最初に導入したのはマッハである。(『感覚の分析』で「空間形態」と訳されているのが空間ゲシュタルト)。メタファーがすべて身体に由来するというのがレイコフの主張だが、この疑わしい仮説を除くと、メタファーはゲシュタルトやパラダイムといった概念とほとんど同じである。

木田氏もいうように、マッハの思想はマルクスやニーチェとつながっている。マルクスが「イデオロギー」と呼び、ニーチェが「パースペクティブ」と呼んだ概念がゲシュタルトの元祖だが、彼らが「支配階級の思想」といった利害対立で考えていた概念を、マッハは純然たる認知的な枠組として科学に応用し、これが相対性理論を生んだことは有名だ。

こうした認知論的転回の観点から考えると、メタファーの基礎に身体があるかどうかはどうでもよく、重要なのはそれが社会的に形成され、全体が個物に先立つというホーリズムである。経済学でも、たとえば消費者が「効用最大化」しているという命題は実証的に否定されており、行動経済学の示したようにフレーミングなどの概念化が意識的選択に先立つのだ。

では、そのメタファー=フレームがどうやって成立するのか、というのはきわめてむずかしい問題で、身体論だけでは答にならない。一時流行した「神経経済学」のような生物学的決定論もだめだろう。本書はその点が突き詰められず、アフォーダンスとかいうオカルトもどきの話で終わってしまう。ここから先は、認知科学にとっても経済学にとってもフロンティアである。