タレブが"Black Swan"の第2版で追加した部分をツイッターで紹介している。あれを読んだとき誰もが感じる疑問は、彼はフランク・ナイトを読んだことがないのかということだが、これに反論してタレブは、ナイトのリスクと不確実性の区別は本質的ではないという。

たとえば世界貿易センタービルで働いていた人にとって9・11は確率ゼロのブラック・スワンだったが、そこに突っ込む飛行機に乗っていたテロリストにとっては確率1に近い出来事だった。両者を知っている神がいれば「存在論的リスク」は計算可能かも知れないが、神はいないので、すべての社会現象はナイトの意味で不確実なのだ。それが機械的なリスクに見えるのは、特定の座標軸を固定した場合の錯覚にすぎない。

Black-Scholes公式に代表される経済学の理論は、社会の本質的な複雑性を捨象して不確実性を予見可能なリスクに帰着させることを「業績」とみなしてきた。しかし質量とか加速度といった測度が固定されている物理学と違って、社会科学の測度は多様であり、それに依存して不確実性の意味も変わる。特定の測度でわかりやすい結果が出たといっても、それは貿易センタービルの中で計測したリスクかもしれない。グリーンスパンの金融政策は、そういう特定の枠組に固執した「自閉的」なものだった。

経済現象が長期の定常状態に収斂するという「合理的予想」仮説は、実証的に検証されたことがない。経済のような経路依存性の大きい系では、平均に収斂するエルゴード性が満たされていないので、こうした理論は経済学者の主観的な願望に過ぎない。それを仮説として語っているうちは害がないが、それを現実と取り違え、現実を長期均衡から一時的に乖離した「攪乱」だと考えていると、2008年のような大失敗が起こる。

すべてのリスクは主観的なので、認識と区別される「存在論的ブラック・スワン」はありえない。これはヒューム以来の懐疑論だが、そこからはすべての社会科学は無駄だという諦観しか出てこない。特定の理論を固定し、それに合わない現象を捨象することによって経済学は成り立ってきた。このような「パラダイム自閉症」は、学問が職業として成り立つ上で避けられないバイアスであり、重要なのは、それを使う側がバイアスをわきまえて使うことだろう。