補正予算が国会を通過したあと、あらためて施政方針演説が行なわれる。首相周辺によれば、鳩山内閣のテーマは「官の縮小と公の拡大」だという。私的利害を超えた公の領域があることは確かだが、何が公であるかは慎重に考える必要があろう。「公の拡大」がバラマキ福祉のようなパターナリズムになるのはごめんだ。

「公と私の矛盾」という問題を最初に定式化したのは、ヘーゲルである。彼は市民社会を私的な「欲望の体系」ととらえ、それが公的な利益と背反する矛盾を止揚するものとして国家を考えた。彼はその終着点としてプロイセン国家を想定したが、これを批判して私的利害と公的利益の矛盾を「類的存在」としての労働者が止揚すると考えたのがマルクスである。

以前の記事でも書いたように、マルクスは「資本主義」という言葉を一度も使ったことがないので、Kapitalistischeという言葉はKapitalistの形容詞形だ。つまり近代市民社会(ブルジョア社会)で支配的に行なわれているのは、公的な富を資本家が私的に独占して蓄積する資本家的生産様式なのである。彼はこの私有財産と社会的生産の矛盾が生産力を制約し、恐慌を引き起こしてブルジョア社会が崩壊すると考えた。

もちろんこの予言は間違っていたのだが、公と私の矛盾という発想はアーレントなどに受け継がれた。古代ギリシャでは私的領域としてのオイコス(家計)と公的領域としてのポリスが峻別されていたのに対して、近代社会では前者が拡大してエコノミーとなり、家計の論理が公的領域を乗っ取って私的に利用するようになった。その最たるものが贈収賄だが、それは本質的な問題ではない。もっとも重要な政治の私的利用は、政党によって行なわれるのである。

政党助成金を創設するとき問題になったように、政党は私的な利益団体であり、政治家は公務員ではない。私的な派閥が公的な立法を行なう政党政治を肯定的に評価したのはエドマンド・バークだが、ハイエクはこれを否定して政治を最小化し、国家を司法化する制度設計を提案した。ここでは公の領域はヘーゲル的な絶対的価値ではなく、個人の利害調整の結果として生まれる妥協にすぎない。

公的意思決定は経済学でも厄介な問題で、センは半世紀にわたる研究の結果、一義的な社会的意思決定を放棄し、多様な基準の中で相対的にましな状態を試行錯誤で選ぶしかないと結論している。個人の意思を投票で集計する民主主義には本質的な欠陥があるので、必要なのは公的意思決定をなるべく政治にゆだねない制度設計である。

最近、「ネットで直接民主主義を実現する」とかいうくだらない議論があるが、重要なのは政治に参加することではなく、政治が個人の生活に干渉する領域を最小化することだ。ポズナーも指摘するように、人生には政治より大事なことがたくさんあるのだから。