ポール・サミュエルソンが死去した。今の学生にはほとんど知られていないだろうが、私の学生のころは、彼の教科書の影響は絶大だった。日本人にとって彼の最大の功績は、マル経を追放して「近経」を主流にしたことだろう。しかし私の同世代では、近経を勉強したのは経済学部の学生だけで、法学部卒の人々の多くはいまだにマルクスを卒業できない。民主党政権の中枢には70年安保のころの活動家が多く、マルクス的な温情主義が残っている。

ただサミュエルソンの教科書には、学生でもわかる矛盾があった。前半のミクロ理論では、需要と供給が一致しないときは価格が動いて両者を一致させると教えるのに、後半のマクロでは失業(労働の超過供給)は市場では解決できないと教えるのだ。これは素直に考えると、賃金(労働サービスの価格)が高すぎるためで、賃金を下げれば失業はなくなるはずだ。ところがサミュエルソンの教科書では、そういうことは起こらないと教える。この新古典派総合は、ミクロ的な基礎を欠いた非論理的な折衷だった。

失業の問題を普通の経済学のロジックで説明したのが、フリードマンの自然失業率だった。アカロフは、60年代にサミュエルソンが、フリードマンの有名な会長講演より前に自然失業率の概念に気づいていたと書いている。しかしサミュエルソンやソローなどの「リベラル」は、多分に政治的な理由から自然失業率理論を批判し、「ケインジアン対マネタリスト」論争が起こった。

この論争の最大の争点は貨幣数量説ではなく、自然失業率を認めるかどうかだった。前者(通貨供給のk%ルール)は否定されたが、後者は理論的にも実証的にもフリードマン側の圧勝に終わった。80年代以降は自然失業率を精緻化した「合理的期待」理論が主流になり、「新しい古典派」や新ヴィクセル派となって今に至っている。学問的には、サミュエルソンのころの素朴ケインジアンはもう存在しないのだ。

ところが永田町や霞ヶ関にはいまだに素朴ケインジアンが生き残っており、「不景気のときは財政出動が当たり前だ」と公言する政治家が多い。こういう連中やリフレ派に共通の欠陥は、フリードマンが(ヴィクセルにならって)導入した自然率の概念を理解せず、政府が裁量的な介入によって自由に経済をコントロールできると考えることだ。サミュエルソンの新古典派総合は、経済学界では忘れ去られたが、政治の世界ではまだ生きており、その負の遺産は今もわれわれを苦しめているのである。