マックス・ヴェーバー入門 (岩波新書)先日もダイヤモンドオンラインで話したように、『希望を捨てる勇気』というタイトルは、あくまでも反語なのだが、これを「絶望のすすめ」と受け取って納得する若者が多い。彼らは物心ついてからずっと不況しか知らないので、「努力すれば未来が開ける」といった希望をもともと持っていない、いわば天然ニヒリズムの世代だ。

他方、彼らに「日銀がお札をばらまけば景気がよくなる」とか「派遣労働を禁止すればみんな正社員になれる」といった偽の希望を売り歩く人々がいる。彼らは政府を批判する一方で、市場に介入するときは政府は正義の味方になる。このように政府がすべての問題を解決してくれるという発想は裏返しのパターナリズムであり、国家の全能性を疑わない点で社会主義と同じだ。

マックス・ウェーバーは官僚による合理的支配の理論を築いたが、彼自身はニーチェの影響を強く受け、合理主義のはらむ脆弱性に気づいていた。このニーチェとの関係を軸にしてウェーバーを読みなおすのが本書のテーマである。『世界宗教の経済倫理』の「中間考察」で、ウェーバーは次のように書く:
合理的・経験的認識が世界を呪術から解放して、因果的メカニズムへの世界の変容を徹底的になしとげてしまうと、宗教的要請との緊張関係はいよいよ決定的となる。なぜなら経験的でかつ数学による方向づけが与えられているような世界の見方は、原理的におよそ現世内における事象の「意味」を問うというようなものの見方をすべて拒否する、といった態度を生み出してくるからである。
ここにはプラトン的な合理主義を徹底すると、すべての意味を否定するニヒリズムにたどりつかざるをえない、というニーチェの思想の影響がみられる。プロテスタント的な禁欲に苦難からの救いを求める西洋の文化は、それが合理化され、官僚化されるとともに、安定してはいるが抑圧的なシステムを完成し、死の静寂を迎えるのかもしれない――という不安が、『プロ倫』の有名な結びの言葉に示されている。

このニーチェやウェーバーの感覚は、衰退期に入ったヨーロッパの状況を映していた。ニヒリズムは西洋的なロゴス中心主義のもたらす必然的な結果であり、力学的ポテンシャルの最小化した均衡状態である。この意味では、いま日本で若者たちが陥っているニヒリズムも、日本が衰退期に入ったことの自然な帰結であり、この均衡状態から抜け出すのはむずかしい。それは「新自由主義が伝統を破壊する」といった低レベルの話ではなく、近代社会による「世界の合理化」の不可避の結果なのだ。

したがってこの問題を、国家の介入や所得再分配で解決することはできない。ウェーバーも「古代への回帰」が可能でもなければ望ましくもないと明言している。では意味を失った近代人はどうすればいいのか――ニーチェは「超人」という不可解な答を残して闇の世界に旅立ち、ウェーバーも答を出せないまま世を去った。

本書はその答を初期マルクスなどにみられる「受苦者の連帯」に求めようとするが、それは明快なものとはいえない。むしろグローバル化とともに富が新興国に広がる一方で、このような近代の呪いも世界に広がるだろう。そして一部の知的エリートしか知らないテクノロジーの発達は、快適な生活をもたらす一方で「受苦の不公平な分配」をさらに拡大する。ニーチェもウェーバーも予期したように、それが近代社会の運命なのだろう。