先日の記事で勝間和代氏のリフレ提言(?)にコメントしたら、すごい反響があった。誤解をまねくといけないので補足しておくと、私は勝間氏の本は立ち読みしかしたことがないので、中身はよく知らない。前に彼女の本についてブログで書いたら、本人がコメント欄に登場し、私に会いたいということで話をしたが、「私の本は中身じゃなくてマーケティングなんです」とのことだった。

そういうわけで私は彼女の著作について語る資格はないのだが、たまたまきょう発売の『VOICE』に斎藤環氏の「“勝間和代ブーム”のナゼ?」というエッセイが出ていた。私がおもしろいと思ったのは、斎藤氏の次のような分析だ:
なるほど勝間氏自身は、自己変革に成功して、その「パーソナル資産」を「社会変革」に向けられる立場に到達しえたのかもしれない。しかし著書を読むかぎり、勝間氏の影響力は、圧倒的に「自己啓発」に比重が置かれている。[・・・]だから「カツマー」たちのほとんどは、自己啓発のほうに夢中で、社会的な問題意識ははっきりいって乏しい。私は経験的に確信しているが、「インセンティブ」としての「自己啓発」と「社会変革」とは、ふつうはまず両立しない。
勝間氏の「社会変革」についての提言が、デフレ論をはじめとしてトンチンカンなのは、彼女の得意分野が「自己啓発」だからなのだ。後者の分野では、彼女は現代の日本でほとんど並ぶもののないエクスパートだが、斎藤氏も指摘するように、社会変革と自己啓発は逆のベクトルをもつ心の動きである。前者は社会の現状を変えようとする外向きの動きだが、後者は現状を所与として「がんばれば報われる」と考える内向きの動きである。

この二つの動きを駆動している心理は何だろうか。私は、ニーチェのルサンチマンという概念が似合うと思う。これは社会的弱者が抱く恨みや劣等感のような屈折した感情で、それが社会への攻撃に向かうと共産主義のような運動になり、内側に向かうとキリスト教のような宗教になる。乱暴にいうと、キリスト教は貧しい人々のルサンチマンに偽りの救済を売り込む史上最大の自己啓発運動だ、というのが晩年のニーチェの主張だ。キリスト教の与える「人生の意味」は偽りだから、その神学をつきつめると「人生に意味はない」というニヒリズムにたどりつかざるをえない。

・・・というニーチェの予言は現実のものとなりつつあるが、こういう自覚をもつのは、実は一部の知識層だけだ。大部分の民衆は、2000年前のキリスト教徒と同じように「貧しい者も努力すれば救われる」と信じて、何かにすがろうとするので、「生き方」本は同じようなことを書いても売れ続け、自己啓発セミナーや新宗教は次々に出てくる。

ジャーナリストや編集者が自分たちと同じレベルの読者を想定しがちなのに対して、あえて「私は池田さんのブログの読者より下の層をねらってるんです」と割り切って大衆に訴える彼女の戦略は、ビジネスとしては見事なものだが、そこから社会変革は出てこない。それはワイドショーと同じく「新自由主義はけしからん」みたいなルサンチマンに訴えて欲求不満を解消するマーケティングでしかないからだ。