蒲田戦記: 政官財暴との死闘2500日 (文春文庫 さ 40-1)
日経平均が1989年の最高値を抜いたことで「バブルの再来か」などといわれるが、当時それを取材した私の実感では、まったく違う。あのときのような全社会が浮かされたような熱狂は(よくも悪くも)二度と日本には来ないだろう。

桃源社の佐佐木吉之助元社長は2011年に死去したが、1992年に桃源社の蒲田駅前ビルが挫折した騒動のあとインタビューしたことがある。蒲田ビルの入札が行なわれたのは1987年3月で、国鉄の集荷場跡地を国鉄清算事業団が払い下げたものだ。

これを桃源社は総額657億円、一坪4500万円という破格の値段で落札し、バブルの象徴として注目された。この落札価格は二番札の3倍で「非常識な高値」といわれたが、当時は銀座の公示地価が坪4億円だった時代で、品川の再開発では興和不動産(興銀の子会社)が坪5000万円で落札した。

佐佐木は「興銀に裏切られた」といっていた。大蔵省の不動産融資総量規制を批判して「バブルをこんな急につぶしたら、どんな会社も生きていけない」と主張し、「日本経済救済協会」という団体を組織し、全国の破産した不動産業者を集めて「政府が債務を免除しろ」という要求を掲げた。

本書は佐佐木の側から見たバイアスがあるが、裁判(競売妨害)では事実関係が明らかになっており、控訴審では彼の言い分も認められて執行猶予になった。バブルの実感を知る参考になるかもしれない。

興銀の裏切り

坪4500万円は当時としては高値ではなく、むしろ当初は100社近くあった入札希望者を第三セクターが「一本化」して絞り込み、安値で落札しようとしたのだ。この一本化工作には新井将敬などの政治家が暗躍し、桃源社に入札をあきらめるよう圧力をかけてきた(新井はのちに自殺)。

結果的には、他の入札希望者が第三セクターに出資して入札を辞退したのに対して、「空気の読めない」桃源社だけが残って、図らずも高値で落札した。しかし当時はまだバブルの真っ最中で、土地は永遠に上がり続けると思われていたので、このプロジェクトにも興銀・長銀・富士銀行・三井信託による協調融資が決まった。

見るからに怪しげな、飲食店ビルを個人経営していた佐佐木にこれだけの有名銀行が融資したのは、彼の信用ではなく土地の信用だった。当時は大阪では末野興産や朝日住建などが住専から1000億円近い金を借りていた。

しかし1990年4月から始まった総量規制で融資が急に細り、興銀は蒲田ビルへの融資を91年末に打ち切った。これは尾上縫事件が91年8月に発覚して、興銀の内部で怪しげな融資をチェックしたことが影響したのだろう。これは当然のことで、むしろ遅すぎた(すでに217億円も融資していた)のだが、明らかに融資契約違反だった。

これについて当時、興銀側にも取材したが、「金利の支払いが滞っている」というのが融資打ち切りの理由だった。これは佐佐木の証言によると順序が逆で、興銀が融資を違法に打ち切ったために金利の支払いができなくなったという。真相ははっきりしないが、興銀としては早く佐佐木と手を切りたかったのだろう。
unnamed興銀にならって他の銀行も融資を打ち切り、蒲田ビルは工事の途中で放棄された。このビルはしばらく店ざらしになっていたが、転売の末に200億円で大田区が買い、今は写真のように区役所になっている。

佐佐木は慶応の医学部を出た医者で、妙にニヒルなところがあった。本人も「贅沢な生活をしたいとは思っていない」といい、「では何のためにこんなに多くの不動産を買ったんですか?」ときくと、「日本経済がどこまで行くか、試してみたかった」と言っていた。

いま思うと、当時は興銀も富士銀行も坪4500万円の土地を担保に融資していたわけで、そういう大銀行の信用がバブルを膨張させた最大の原因だった。佐佐木や高橋治則などの「悪漢」だけが槍玉に上がるのは不公平である。