先日の左翼の堕落についての記事には(予想どおり)反発が多かったようだが、バランスをとるために右派の堕落についても書いておこう。といっても70代以上の老人を読者層とする右派論壇の没落のことではなく、社会工学という形で性懲りもなく繰り返されるパターナリズムのことだ。
その典型が、今は亡きリフレ派だろう。さすがにもう「日銀が4%のインフレを15年間続けると宣言しろ」というクルーグマンのご託宣を復唱する向きはいなくなったが、それを喧伝した翻訳家も『訳者解説』なる駄本からこっそりクルーグマンの解説を抜いただけで、反省の弁は聞かれない。かつて構造改革を罵倒した学説史家に至っては、苦しまぎれに「所得政策」を主張するありさまだ。
彼らの間違いは、意外に根が深い。それはオーギュスト・コントやベンサム以来の「社会は人工的に管理できる」という操作主義にもとづいているからだ。その最近の代表はポパーで、彼はマルクスのような「歴史主義」を批判する一方で、ピースミール社会工学を推奨し、その模範がケインズの総需要管理政策だった。このように漸進的に社会を改良して客観的に正しい状態にする手法は、リスクの高い「革命」よりも妥当な考え方のようにみえる。
しかしハイエクは、親友ポパーの社会工学を「計画主義の変種」だと批判した。どちらが正しかったかは、リフレ派の自爆や最近の財政赤字をみれば明らかだろう。社会工学が失敗する原因は、ポパーが信じたように漸進的に近づいてゆく客観的真理などというものは存在しないからだ。彼の本業である分析哲学でさえ、クーンやファイヤアーベントによってそのような絶対的真理の存在は否定された。
本来の工学では機械は最初から人工的に設計されているので、設計者が100%制御できるが、社会をこのような工学系になぞらえるのはミスリーディングだ。社会はいうまでもなく設計者のつくったものではないし、その要素である個人は利己的なので、設計者の想定するように行動するとは限らないからだ。このような意図せざる結果のために、社会工学は失敗するのである。
もう一つ重要な違いは、社会の中には短期的に操作できる要因と長期的にしか変化しない要因があるということだ。前者は財政支出や通貨供給などのわかりやすい数字だが、後者は法的・経済的な制度や文化的な伝統や慣習である。たとえば中央銀行の通貨調節で短期的な景気循環をなめらかにすることはできるが、それを超えて日銀が通貨を際限なくばらまいたら経済がいくらでも成長するなどということはありえない。実体経済で消費される以上の生産物を中央銀行が作り出すことはできないからだ。
規制が生産活動や消費を制約している場合には規制を撤廃することが必要だし、生産性の低い企業が退場して新しい企業に新陳代謝しないかぎり、実体経済の潜在成長率は上がらない。残念ながら現在の大学教育では、この短期と長期の違いを系統的に教えず、短期の議論でしかないケインズ理論を素朴に延長して長期の問題を考える傾向が強いため、いつまでもこの種の混乱した議論が再生産される。
民主党政権のいう「成長戦略」も、バラマキ福祉をやっていればそのうち成長率が上がるだろうという無責任なものだが、そんなことは絶対に起こらない。鳩山首相の学んだORは機械系なので、意図せざる結果を計算しないで「友愛」さえあれば問題が解決すると思っているのかもしれないが、このまま友愛のバラマキを続けたら確実に起こるのは、財政破綻による日本経済の崩壊である。
その典型が、今は亡きリフレ派だろう。さすがにもう「日銀が4%のインフレを15年間続けると宣言しろ」というクルーグマンのご託宣を復唱する向きはいなくなったが、それを喧伝した翻訳家も『訳者解説』なる駄本からこっそりクルーグマンの解説を抜いただけで、反省の弁は聞かれない。かつて構造改革を罵倒した学説史家に至っては、苦しまぎれに「所得政策」を主張するありさまだ。
彼らの間違いは、意外に根が深い。それはオーギュスト・コントやベンサム以来の「社会は人工的に管理できる」という操作主義にもとづいているからだ。その最近の代表はポパーで、彼はマルクスのような「歴史主義」を批判する一方で、ピースミール社会工学を推奨し、その模範がケインズの総需要管理政策だった。このように漸進的に社会を改良して客観的に正しい状態にする手法は、リスクの高い「革命」よりも妥当な考え方のようにみえる。
しかしハイエクは、親友ポパーの社会工学を「計画主義の変種」だと批判した。どちらが正しかったかは、リフレ派の自爆や最近の財政赤字をみれば明らかだろう。社会工学が失敗する原因は、ポパーが信じたように漸進的に近づいてゆく客観的真理などというものは存在しないからだ。彼の本業である分析哲学でさえ、クーンやファイヤアーベントによってそのような絶対的真理の存在は否定された。
本来の工学では機械は最初から人工的に設計されているので、設計者が100%制御できるが、社会をこのような工学系になぞらえるのはミスリーディングだ。社会はいうまでもなく設計者のつくったものではないし、その要素である個人は利己的なので、設計者の想定するように行動するとは限らないからだ。このような意図せざる結果のために、社会工学は失敗するのである。
もう一つ重要な違いは、社会の中には短期的に操作できる要因と長期的にしか変化しない要因があるということだ。前者は財政支出や通貨供給などのわかりやすい数字だが、後者は法的・経済的な制度や文化的な伝統や慣習である。たとえば中央銀行の通貨調節で短期的な景気循環をなめらかにすることはできるが、それを超えて日銀が通貨を際限なくばらまいたら経済がいくらでも成長するなどということはありえない。実体経済で消費される以上の生産物を中央銀行が作り出すことはできないからだ。
規制が生産活動や消費を制約している場合には規制を撤廃することが必要だし、生産性の低い企業が退場して新しい企業に新陳代謝しないかぎり、実体経済の潜在成長率は上がらない。残念ながら現在の大学教育では、この短期と長期の違いを系統的に教えず、短期の議論でしかないケインズ理論を素朴に延長して長期の問題を考える傾向が強いため、いつまでもこの種の混乱した議論が再生産される。
民主党政権のいう「成長戦略」も、バラマキ福祉をやっていればそのうち成長率が上がるだろうという無責任なものだが、そんなことは絶対に起こらない。鳩山首相の学んだORは機械系なので、意図せざる結果を計算しないで「友愛」さえあれば問題が解決すると思っているのかもしれないが、このまま友愛のバラマキを続けたら確実に起こるのは、財政破綻による日本経済の崩壊である。





希望を捨てる勇気:停滞と成長の経済学
なぜ世界は不況に陥ったのか
ハイエク 知識社会の自由主義
歴史入門
比較歴史制度分析
フリー:〈無料〉からお金を生みだす新戦略
強い者は生き残れない
労働市場改革の経済学
「亡国農政」の終焉 
生命保険のカラクリ
チャイナ・アズ・ナンバーワン
成功は一日で捨て去れ
ネット評判社会
アニマル・スピリット
ブラック・スワン
Macroeconomics
市場の変相
Against Intellectual Monopoly
財投改革の経済学
著作権法
つぎはぎだらけの脳と心
倒壊する巨塔
傲慢な援助
In FED We Trust
思考する言語
The Venturesome Economy
CIA秘録
生政治の誕生
Gridlock Economy
禁断の市場
暴走する資本主義
市場リスク:暴落は必然か
現代の金融政策
テロと救済の原理主義
秘密の国 オフショア市場

コメント一覧
私は、国家をどのように考えるかで、新自由主義と市場原理主義に大きなちがいがあると考えます。そして、市場原理主義というものは、国家がまともに機能しているときにはじめて成り立つものだろうと思っています。阿呆がやった「焦土作戦」に、自民党左派=新自由主義者は反発しましたが、自民党右派=市場原理主義は反発しませんでした。でも、あまり驚かなかったですね。市場原理主義者なんてしょせんそんな連中だろうと思っていましたから。
「社会」という概念は、かなり新しい概念ですね。「国家」という概念より新しい。「国家」を工学的に考えることができても「社会」を工学的に考えることはできないでしょう。ただ、日本では「国家=社会」みたいに考える人が多いので、政治の世界でも困ることがあります。
鳩山さんは日本の(薄っぺらな?)高校からスタンフォードの工学博士ですか。友人が似たような最終学歴(慶應、イートン、ケンブリッジのクレアカレッジですが)すけど、fraternityの意味を正しく認識しています。
gemeinschaftや世界コミュニティに向かうためには「道具」が必要で、それが「自治」や「組合」や「市場」であり、金融や株式会社制度や国家はそれらを具現化したものだ。根本を突き詰めていけばそれを扱う人間の宗教観や人格教育だと。
「竹中平蔵と小泉純一郎がいきすぎた市場原理主義をつくった」などと発言してしまうのは笑ってしまう。
心と脳の偏差値が低い官僚(といってもだいたい地方の役人)と傲慢な政治屋から金融や教育や医療、農業、情報通信を解き放って民間の経営者にゆだねるというイロハがわからないのは、この人もデカルト的な教育のくびきから抜け出せないからだろうか。
キリスト教だけが素晴らしいのではないのだよ、鳩山総理。たまには神道や仏教の真諦にでも近づこうと考えたらどうか。
さっきPHP新書の「ハイエク」読み終わりました。今回のブログ記事はその本の要約的な所があるのでとても読みやすいですね。
>gemeinschaft
ヘーゲルが国家と社会をどこまで分離していたかは疑問ですし、そもそも「社会」という概念はヘーゲルが死んだ後で登場してきた概念でしょう。誤解を恐れずに言えば、社会という概念と社会主義という思想には同時代性がある。私は、社会主義の本質は、空間の広さだけでなく、密度の点でも国家を超えようとするところにあると考えます。その意味で、「大きな政府」を社会主義と呼ぶのは間違いであるとさえ思います。
民主党内で、国家と社会を完全に分離して政治を行おうとしているのは小沢一郎でしょう。政策の一元化も、鳩山さんではなくて、小沢さんの考えだと思います。小沢さんの方針は、政府は国家の側に立てばいい、政党は、たとえ与党であっても社会の側に立つ、ということでしょう。まさにイギリス型統治機構でありイギリス型政党政治です。悲しいかな、自民党でそれが分かっている政治家がほとんどいない。国家=社会と思い込んでいるバカが多すぎる。今回の政権交代が、そのような時代の終止符になったということに、まだ気づいていないのです。予備選を導入して総入替えもあり得るというふうにしないとどうにもならない。