哲学する民主主義―伝統と改革の市民的構造 (叢書「世界認識の最前線」)BLOGOSの発足にともなって、当ブログも今週の後半からライブドアに移行し、少し模様替えする。アゴラに「良書悪書」というコーナーを創設して、新刊や一般向けの本の書評はそちらに移し、ブログでは昔の本や専門書についての「非書評」をする。

民主党政権では「地域主権」がとなえられているが、同じ公務員といっても、国家公務員と地方公務員はまったく質が違う。地方公務員は霞ヶ関でいえばノンキャリアの集団で、国の下請けしかやってこなかったので意思決定能力は低く、労働組合が強くて勤労意欲も低い。このままで権限と財源を地方に移譲すると、日本中が社会保険庁状態になるおそれも強い。こうした改革の先例を詳細に分析したのが本書で、民主党のみなさんにも参考になるだろう。

1970年代、イタリアは州政府を創設して地方分権化を実施した結果、州ごとの政治的パフォーマンスの違いがはっきりした。行政サービスや政治腐敗などの12の指標で各州を比較すると、ほとんどすべての指標で北イタリア(ミラノ・トリノなど)が南イタリア(ナポリ・シチリア島など)よりはるかにすぐれていた。本書によればローマは平均だが、私の経験では、これが平均というのでは、最低のナポリにはとても住みたくない。

こうした民主主義の成熟度の差の原因を本書は回帰分析で検証し、その最大の原因は北イタリアで中世から継承されてきた市民共同体の自治にあると結論する。これはフィレンツェなどの都市国家の伝統で、近代化とともに統治機構は中央政府に吸収されたが、合唱団やサッカーリーグなどのグループやNPOが数多くあり、このような市民団体が州政府を監視することによって政府のパフォーマンスも上がったのだという。こうした伝統的な規範を本書は社会的資本(social capital)と呼び、この種の研究の古典となった。

著者もいうように、こうした秩序形成の一部はゲーム理論のフォーク定理で説明できるが、実はフォーク定理では全員が協力する均衡とともに全員が裏切る均衡も存在する。前者を北イタリア、後者を南イタリアとすると、どちらの均衡が選ばれるかは合理的なゲーム理論では答が出せないが、それを決める認知的な枠組を著者は社会的資本と呼ぶのである。この概念は経済学でも注目され、従来のようなムラ社会か司法権力かという二者択一ではなく、法的コストの低い市民的ガバナンスがありうることが解明され始めた。

「良書悪書」で取り上げた『ネット評判社会』でも、山岸俊男氏は日本的な安心社会がグローバルな信頼社会に脱却する一つの手がかりとして「商人道」をあげているが、これも社会的資本の一種といえよう。その代表である「江戸しぐさ」などは、おもしろい研究対象になるのではないか。