本書は、ハイデガー晩年のもっとも重要な論文「技術への問い」を中心にして5本の論文を集めたものである(復刊)。最初に断っておかなければならないのは、訳があまりにもひどく、とても通読できないということだ。たとえば有名な、技術をGe-stellという奇妙な言葉で表現する部分は、本書ではこう訳されている:
われわれはいま、それ自体を開蔵するものを用象として用立てるように人間を収集するあの挑発しつつ呼びかけ、要求するものをこう名づける――集‐立(Ge-stell)と。
グーグルの自動翻訳でも、もう少しましな訳になるだろう。私は原文を読んではいないが、英訳のほうがはるかにわかりやすい。英訳ではGe-stellはenframingと訳されており、自然を一定の枠組の中で理解し、利用することだ。

この論文が重要なのは、若きハイデガーが『存在と時間』で提起した形而上学批判という問題に、晩年の彼が技術論という形で(暫定的な)答を出しているからだ。といっても彼が「テクノロジーが人間を疎外する」とか「自然と人間が共生しよう」などという陳腐なヒューマニズムを表明しているわけではない(彼はヒューマニズムを否定している)。

ハイデガーの基本的な発想は、科学と技術を二分して後者を低くみる近代の発想は誤りだということである。テクノロジーの語源となったギリシャ語テクネーは、自然の中の真理を人間が開示することを意味し、詩や芸術を含んでいた。だから技術が対立するのは科学ではなく、自然がおのずから立ち現れてくるポイエーシス(生成)である。西洋以外の多くの文明圏ではこのような自然観が支配的だったが、西洋ではテクネーがポイエーシスを圧倒してしまった。

近代科学を生んだのも、この意味でのテクネーであり、「技術は科学の応用にすぎない」という通念は誤りだ。近代科学の方法論は自然を受動的に見るのではなく、実験や工学的応用によって自然を「挑発」して真理を開示するテクネーだからである。したがってプラトン以来の、世界を「本質の現前」と見る形而上学は、自然の中にあらかじめ存在する(と彼らが想定する)真理を開示するテクノロジーであり、それがもっとも先鋭な形であらわれたのが現代の科学=技術である。

自然の中に普遍的真理が存在するというのも一つの仮定にすぎないが、たまたま近代の自然科学が大きな成功を収めたため、すべての学問は「科学」になろうとしている。しかし科学技術は本質的に人為的なゲシュテル=フレーミングなので、つねにその枠組を逃れるヒューム的な例外が現れる。それこそが自由を可能にし、芸術を生み出すのである。

追記:訳者から指摘があったので、誤字を修正した。「ハイデガーの難解さは原文の本質的な難解さだ」というのはおっしゃる通りだろうが、訳本の役割はそれをわかりやすい日本語に置き換えることだ。ハイデガーの本質に挑戦する人は原著を読めばよい。まぁ英訳のようにわかりやすすぎるのも問題だが。