脳が驚異的に複雑で巧妙にできていることは誰でも知っているが、それは脳の性能が高いことを必ずしも意味しない。むしろ脳は進化の過程で行き当たりばったりに複雑化し、古い脳の上に新しい脳がつぎ足されているため、機能が重複して効率が悪いというのが本書のテーマだ。進化の初期の段階でつくられたまま、ほとんど使われていない古い機能も常に「オン」になっているので、わずか1.3kgの器官を維持するために人間の摂取するエネルギーの2割が使われている。素子(ニューロン)の性能は半導体の数万分の一以下しかなく、処理速度も正確さもはるかに劣る。

その代わり脳は、1000億のニューロンと500兆のシナプスからなる恐るべき超並列コンピュータで、この並列処理によって素子の低性能を補っている。たとえば眼球の機能は不完全なので、情報の入力は不安定だ。次の図はサッカード(視点運動)とよばれる現象の実験で、左側の写真を4分間見ると、右側のように眼球は頻繁に動くが、被験者はまったく静止した写真として知覚する。これは実際には激しくぶれている視覚情報を脳が編集しているからだ。


また処理能力の足りないニューロンの断片的な入力情報を編集して物語をつくるのが、脳の重要な機能だ。その典型が夢である。眠っているときの脳内のランダムな連想を脳が無理やり編集するため、荒唐無稽な物語になる。古い脳の処理能力をカバーするために、あらゆる情報に意味をつける機能は「オフ」にできないのだ。こうした実験は、行動経済学の知見を説明する役に立つ。Kahneman-Tversky以来よく知られているように、情報を一定の枠組の中で解釈するフレーミングは遍在的で強力な行動だが、それは脳の構造に深く根ざしているのである。