技術とは何だろうか 三つの講演 (講談社学術文庫)ハイデガーの主著とされる『存在と時間』は、その第1部「現存在の解釈と時間の解明」だけが出版され、第2部「存在論の歴史の現象学的解体」は未完に終わった。その問題についてハイデガーが一つの答を出したのが、戦後に書かれた一連の技術論である。

そのキーワードが、技術の本質を表現する言葉としてハイデガーがつくったGe-Stellという言葉である。これは以前の訳本では「集-立」という意味不明な日本語になっていたが、本書では「総かり立て体制」。これも訳し過ぎだろう。

英訳ではenframing、「枠に入れること」という意味だ。これでも何のことかわからないが、文中で何度も出てくる文脈から考えると、ハイデガーは原子力をイメージしていたと思われる。彼は核兵器に強い関心をもち、それにたびたび言及しているので、この1953年の講演も「原子力とは何だろうか」と読むことができる。

ハイデガーの技術論を「原子力時代における哲学」として読む試みは國分功一郎氏がやっているが、これは反原発カルトの思い込みで台なしになっている。

ハイデガーの語っているのはそんな陳腐な話ではなく、プラトン以来の西洋の形而上学の批判である。これは黒いノートにも書かれた彼の終生のテーマだったが、彼は原子力という異形のエネルギーの中にその一つの答を見出したのだ。

プラトンの本質主義が科学を生んだ

科学と技術を二分して後者を低くみる近代の発想は誤りである。古代ギリシャでは自然をあらわす言葉はピュシスであり、それを利用する技術はテクネーだった。これは自然の中の真理を人間が開示することを意味し、詩や芸術を含んでいた、とハイデガーは指摘する。

だから技術が対立するのは科学ではなく、自然がおのずから立ち現れてくるポイエーシスである。西洋以外の多くの文明圏ではこのような自然観が支配的だったが、西洋ではテクネーが圧倒的な成功を収めたため、人々は自然を工学的に駆り立てることが技術だと思っている。

その先駆けがプラトンだった。彼はあるがままのピュシスに自然の本質を見るのではなく、それを超えたイデアに本質があると考えた。このように世界を本質の現前とみる本質主義はキリスト教に受け継がれ、圧倒的な成功を収めた。

自然を「挑発」する技術から自然に住みつく芸術へ

ハイデガーも指摘するように、近代のテクノロジーは自然を挑発し、そこに潜在的に含まれているエネルギーを徴集するものである。原子力の核分裂エネルギーは世界中に遍在するが、その利用は核兵器や原子炉などの高度な技術で初めて可能になる。

それを可能にする原子力技術は、量子力学というテクネーにもとづくものであり、これはプラトン以来の形而上学の極北である。その意味はほとんどの人にはわからないが、その有効性は広島と長崎での大量殺戮によって証明された。

ここには自然をブラックボックスとみなして数学的にコントロールする態度がある。科学は自然を徴用物質として道具にし、人を存在の真理から遠ざけてしまった。

だがハイデガーは「科学が人間を疎外する」などという陳腐なヒューマニズムで反原子力を語るのではなく、ピュシスに住みつく芸術に立ち返ろうとして、ヘルダーリンの詩を引用する。

だが、危機のあるところ
救いとなるものもまた育つ

プラトンが創造し、キリスト教が世界に広めた形而上学は、近代科学として世界を支配したが、その利用可能なエネルギーの大きさゆえに人間のコントロールを超えるに至った。それを取り戻すには、芸術を含む総合的なテクネーの再構築が必要だ――という曖昧な結論で本書は終わっている。

トラックバック一覧

  1. 1. wilcomさん、大丈夫!?

    • [つれづれコンサル2]
    • 2009年09月19日 20:30
    •  mixiのニュースで「<ウィルコム>事業再生ADR申請で最終調整 立て直しへ」...
  2. 2. AIR-EDGE、なつかしいです。(いまでもあるけど)

    • [エコトバな日々]
    • 2009年09月19日 21:10
    • 池田センセイによると、「電波社会主義」なのだそうです。そうかもね・・・。2.5GHz帯はオークションで仕切りなおせ-池田信夫blogなんか家に残ってました。AIR-EDGE。懐かしいですね。でも当時月々5,000円ちょっとぐらいだった料金はさておき、やっぱりPHSは...

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