先日の年功序列についての記事が不正確だったので、訂正しておく(テクニカル)。

年功序列の起源が明治期の官僚制にあるというのは誤りで、戦前それに近い序列があったのは大蔵省だけだという。たしかに秦郁彦氏の労作『戦前期日本官僚制の制度・組織・人事』によれば、両省の事務次官の入省年次は次のようになっている:



就任順12345678910111213141516
大蔵省1896189518951896189719021903190419051907190919121910191719151917
内務省1895189518981897190418971902189819031897189519071909190919131912

大蔵省も厳密な年次順にはなっていないが、内務省はバラバラである。もちろん大きくいえば次第に年次が若くなっているが、これはどんな職場でもあることで、少なくとも年次の順に次官に就任するという現在のような慣行は戦前はなかったようだ。

「年功」という言葉を賃金制度について初めて使ったのは、氏原正治郎と藤田若雄の1951年の調査である。これは京浜工業地帯の大工場についてのもので、おおむね入社年次によって昇進と賃金が決まっていた。これは職工の「身分」に対応しており、たとえば二等工手は三等工手として3年以上実績のある者から選抜する、といった形で昇進したためである。氏原・藤田はこの慣行の起源を「親方制」の徒弟制度に求めている。経験年数による序列は1890年代から記録に残っているが、これは結果としての年功制であり、年次による管理が行なわれていたわけではない。

野村正實『日本的雇用慣行』によれば、厳密な年功序列が民間で初めて見られるのは、戦時経済下だという。このころ、たとえば三菱重工の工員は1932年に約1万人だったのが1942年には16万人、1944年には36万人と爆発的に増えたため、人事査定をひとりひとり行なうことが不可能になり、機械的に年次で行なうようになったものだ。

こうした人事制度が戦後も継承され、特に官庁では外務省を除くすべての官庁で厳密な年次による昇進管理が行なわれるようになった。しかし民間ではそれほど厳密ではなく、今でも中小企業には、年功制はほとんどない。ただ高度成長期には、企業が成長し、社員の年齢構成もピラミッド型になっていたので、大企業では自然に年功序列が形成されていったと思われる。

年功序列は、職工が時間をかけて技能を蓄積してゆく時代には適していたが、工程が機械化されると、このような熟練工は必要なくなった。それが戦後も維持されてきたのは、結果として社員に「会社への貯金」を強要して囲い込むインセンティブ・システムとして機能したためだろう。だから年功序列は長期雇用を支えているが、後者にとって必須ではない。能力主義にもとづく長期雇用も可能だし、競争の激しい製造業では年功制は崩れ始めている。公務員制度改革でも「年功序列の打破」がうたわれている。これは日本的雇用慣行のもっとも弱い環といえよう。

政界も戦後しばらくは実力主義だったが、自民党の長期政権が続いて緊張がゆるむと当選回数による序列ができた。しかし「舛添総裁」が待望されているのを見ると、政界でも年功序列が崩れ始めているようだ。日本が変わるためにまず必要なのは、この不合理で無用な慣行を明示的に廃止することだ。特に民主党が政権をとって「天下り禁止」を行なう場合、現在のような年次による人事管理をしていては、50代の窓際族の処理で行き詰まることは必至だ。「官民人材交流センター」をやめるなら、年功序列を禁止する国家公務員法の改正を行なってはどうだろうか。

追記:コメントで指摘されたが、軍が厳格な年功序列になっていたことが影響したのではないかとも考えられる。しかし軍の昇進が士官学校の成績(ハンモックナンバー)と年次で決まるのは、世界的にみられる現象で、日本だけでそれが民間にも広がったとすれば不可解だ。いずれにせよ年功序列は、中央集権や間接金融体制と同様、戦時の「総動員体制」のもとで生まれたということだろう。