ウンベルト・エーコによれば、文化は「危機に直面する技術」だという。記号論が示すように、文化の基本は一定のシンボル体系の中に情報を秩序づけて共有することだが、こうしたフレームが制度化されると本源的なリアリティとの間に齟齬が生まれる。それが非常に大きくなるとコミュニティの存続が脅かされるので、そのリスクを認識させるのが「反秩序」としての文化である。

こういう話は一時、「トリックスター」論として流行したが、その走りが本書(原著は1966年)である。著者は、それまで文化人類学の研究対象とされなかった不浄なものが、文化の中で重要な役割を果たしていることを明らかにした。汚物についての禁忌(タブー)は、どの文化圏でもきわめて強いが、その対象は両義的な意味をもつことがしばしばあり、聖なるシンボルとして儀礼で重要な役割を果たす。
たとえば葬儀に糞尿を使う慣習は「未開社会」に広く見られる。死体に尿をかけて清めたり糞と一緒に埋葬したりする儀式があり、葬式の前後には性的なタブーも解除されることが多い。こういう慣習は「文明国」にも残っており、ニューオーリンズでジャズが生まれたのは、墓地に隣接する売春街だった。日本でも、吉原の遊郭は鶯谷の墓地に隣接していた。死や性や不浄などの非日常の世界にふれることによって、人々は日常の抑圧から解放され、秩序をリセットするのだ。

こうしたシンボリックな儀式は近代社会では力を失ったが、社会を脅かすリスクがなくなったわけではない。著者もいうように、リスクはタブーに似ている。それは個人の心理によってではなく、共有される文化によって生み出される概念だ。かつては飢えや病気を恐れた人々が、今日では地球温暖化や食物汚染を恐れ、それを排除するためにはいくら高いコストをかけてもかまわないと思っている。

しかしリスクを絶滅することはできない。このような汚染を排除して見えなくすることは、危機をおおい隠してバランス感覚を失わせる結果になる。バラマキ福祉によって貧困を隠すことは、逆に財政危機を蓄積して、もっと大きな破局をまねくだろう。このような危機を警告するためには、タブーを破る「不浄」なウェブも役に立つかもしれない。