本書は、自由と平等のトレードオフを軸にして、戦後の世界経済を概観したものだ。平等という言葉には曖昧さが含まれており、著者も指摘するように「法の下の平等」という意味での機会均等は近代社会の絶対条件だが、みんなの所得を同じにする結果の平等は、しばしば自由を侵害し、貧困をもたらす。ところが著者もいうように、
「平等」への情熱は一般に「自由」へのそれよりもはるかに強い。すでに手にした自由の価値は容易には理解されないが、平等の利益は多くの人々によってただちに感得される。自由の擁護とは異なり、平等の利益を享受するには努力を必要としない。平等を味わうには、「ただ生きていさえすればよい」(トクヴィル)のである。(p.372)
分配の平等を求める感情が合理的な計算より強いことは、行動経済学の実験でも確かめられている。これは進化の過程で「古い脳」に埋め込まれた本能なので、文化の違いにかかわらず見られる。それが市場経済の基礎にある「自由な利益追求」の原則と矛盾することは、アダム・スミスの時代から認識されてきた。

戦後の世界でも、自由の拡大によって経済が発展すると平等を求める感情が強まり、規制や過剰な再分配によって経済が行き詰まると自由主義的な改革が行なわれる、というパターンが各国で繰り返された。そのもっとも劇的なケースが社会主義である。分配の平等によって目の前の貧しい人が救われるメリットは誰にもわかるが、そういう政府の介入によって市場がゆがめられ、経済の効率が落ちる弊害を理解するためには教育が必要だ。社会全体が破綻するという結果が誰の目にも明らかになるには、社会主義のように70年以上かかることもある。

1980年代までの日本では、こうした矛盾を年率10%以上の成長率が帳消しにしてきたが、成長の止まった90年代には利害対立が顕在化し、政府がそれをバラマキで解決しようとして、問題をさらに大きくしてしまった。財政と年金の破綻は、個人金融資産1400兆円をすべて吹っ飛ばす「時限爆弾」に膨張したが、政治家は与野党ともにその破壊力を理解せず、さらなるバラマキを「成長戦略」と称している。著者もいうように、平等化の進展が自由を浸食して効率を低下させやすいのは「人的資本の水準の低い国」だとすれば、日本の知的水準はまだ先進国には達していないのだろう。