経済学の依拠している功利主義は、独立した<私>がある財から得る<効用>を最大化すると想定しているが、このような素朴唯物論は心理学でも脳科学でも否定されている。本書もいうように、そもそも私という存在が無数のニューロンの刺激を合成した錯覚であり、それが外部の物体を直接に知覚することもありえない。脳はまず外界のモデルをつくり、その予測を経験によって修正しながら知覚するのだ。

こうした知覚が意味として成立するには、他人との相互作用によってモデルを共有する必要があり、認識は本源的に相互主観的だ――こうした認識論は100年前にフッサールが内省によって導いたものだが、最近の脳科学はそれを裏づけている。フッサールが地平と呼んだものが、脳内のモデルに対応している。こうした相互主観的な認識の成立する過程では、他人の気持ちを感じるミラーニューロンが重要な役割を果たす。

もう一つ重要な発見は、こうした知覚が身体化されていることだ。脳内にはホムンクルスと呼ばれる身体の地図があり、知覚は身体と対応している。デカルト以来の心身二元論は、脳には存在しない。メルロ=ポンティのいったように、身体が知覚を規定し、認識は行動によって条件づけられているのだ。

意味が形成される過程も、対象に表現が対応するといった記号論的なものではなく、コミュニケーションの中で個人のモデルの類似点や相違点を見つけながら、再帰的にモデルを修正する「言語ゲーム」によって行なわれる。これもウィトゲンシュタインが提唱したことだ。本書はこうした哲学や認知科学の議論を参照しているわけではないが、結果的に20世紀後半の「認知論的転回」を実証している。

ニューロンの変化がそのまま経済行動に反映すると想定する「ニューロエコノミックス」の素朴唯物論は、あまり意味のある成果を生んだとはいえない。むしろ脳内でどういうモデル(フレーム)が形成されるかを見たほうがいいのではないか。