竹森俊平氏の対談シリーズの最終回のゲストは、意外にも竹中平蔵氏。しかも彼を「日本経済の恩人」と絶賛している。かつて「不況の最中に構造改革なんかやるのはバカだ」と竹中氏を(暗黙に)批判していた竹森氏が、リフレ派から構造改革派に「転向」したのはけっこうなことだが、かつての自説との矛盾の説明がいささか苦しい。

2000年代の最初の不良債権処理についての2人の意見はほぼ一致しており、当ブログや池尾・池田本で書いたこととほとんど同じだ。経済危機の本質は信頼の欠如にあり、それを回復することなしに財政・金融政策だけで危機を脱却することはできない。その意味で(中途半端に終わったとはいえ)竹中氏のハード・ランディング政策は正しかったのである。

ただ私が興味をもったのは、最後の「低成長でも健やかに暮らせればいい?」という問いだ。Welfareを「厚生」という変な日本語に訳したのは誤訳で、これは英語では「幸福」という意味の普通の言葉である。したがって福祉政策の目的も「人々を幸福にすること」であり、welfare economicsも「人々を幸福にするにはどうすればいいのか」を考える学問だ。だから幸福を最大化するためには、何が幸福なのかをまず考えなければならない。ところが経済学ではベンサム以来、welfare=wealthと定義し、富を最大化することが幸福の最大化だと考えてきた。

この単純な功利主義は、ハイエクも指摘したように、明らかに誤りだ。幸福は富と同一ではなく、その増加関数かどうかさえ不明だからである。実験経済学や行動経済学などの実証研究によれば、両者はほとんど無関係だというのが定型的事実だ。日本人の所得は1950年代から5倍になったが、「幸福度」は2.9から2.6に下がり、世界で60位前後だ。幸福=富と考えるかぎり、日本人がこれから大きく幸福になる可能性はあまり高くない。世代会計でみると、今の30代以下は不幸になるおそれが強い。

ゼロ成長で所得の再分配を極端に進めると、みんなが平等に貧しくなるだけで、財政も破綻してしまう。それよりも成長率を上げて経済全体が豊かになることが大事だ――という竹森氏と竹中氏の一致した結論は、おそらくすべての経済学者のコンセンサスだが、次の総選挙で自民・民主両党のとなえる政策とは違う。彼らは一致して「市場原理主義」を否定し、「低成長でも健やかに暮らせればいい」と主張しているからだ。

これほど経済学者の常識と世間の常識が乖離しているケースも珍しい。しかもそれは「幸せとは何か」というきわめて根本的な問題だ。現実にゼロ成長に近い状況が続く可能性が高いとすれば、そういう時代に適応して希望を捨てる政策は、少なくとも現実性という点ではかなり有力な選択肢であり、議論に値する。ただ2005年の総選挙で「日本をあきらめない」というスローガンを掲げた民主党が、今それとは逆の政策を進めていることぐらいは自覚してほしいものだ。