池袋のジュンク堂で「木田元書店」というのをやっている。といっても、7階の片隅に木田氏の著訳書と蔵書が並べてあるだけだが、入口に本書がたくさん積んであったので、既視感もあったが買ってみた。著者は「反哲学のなんとか」という本を何冊も書いていて、どれも似たような内容だが、本書が一番まとまっていてわかりやすい。

「反哲学」という言葉には、そもそもphilosophy(知を愛すること)を「哲学」などと訳したのが誤訳だという意味もこめられているのだが、解説の中心は何といってもプラトン以来の哲学を全面的に否定したニーチェである。日本では、ニーチェというと『ツァラトゥストラ』の文学的なイメージでとらえられることが多いようだが、あれは本来の「主著」の導入ともいうべき叙事詩で、ニーチェの本質は『力への意志』と名づけられている未完成の遺稿を読まないとわからない。

著者の専門であるハイデガーも、ニーチェの圧倒的な影響を受けており、デリダもドゥルーズもフーコーも「新ニーチェ派」といってもいいぐらい影響を受けている。その原点を著者は、ハイデガーの存在論に求める。彼の本来の思想は『存在と時間』より、晩年の『ニーチェ』講義にわかりやすく書かれている。それはプラトン以来の、世界を(神に)つくられたものと考える西洋の存在論を否定し、存在を世界になるものととらえる存在論で、この点ではニーチェもハイデガーも一致しているのだ。

これは西洋人には非常にむずかしい問題で、ハイデガーも答を出せないまま世を去り、ポストモダン派は「本質の現前としての存在論の解体」の部分しかいわない。しかし著者は丸山眞男の「「つぎつぎに・なりゆく・いきほひ」を引き合いに出し、西洋圏以外ではむしろ世界を誰かがつくったなどという存在論のほうが変なのではないか、と論じる。これが「特殊西洋的な思考法としての哲学を否定する」という反哲学のもう一つの意味だ。

丸山は「つくる」世界観が近代的で、「なる」世界観はアジア的後進性と考え、荻生徂徠に前者の先駆を求めたのだが、これは文献学的にはともかく経済史的には注目すべき論点を含んでいる。産業革命がなぜ18世紀のイギリスで生まれたのか、という難問の答の一つとして、株式会社という人工的組織(Gesellschaft)が重要なイノベーションだったのではないかという説が最近、有力だからである。この文脈で、大塚史学や講座派マルクス主義なども見直す価値があるかもしれない。

ゲゼルシャフトでは、個人を自己完結的な合理的主体と想定する。そういう単純化にもとづいた(新古典派経済学的な)経済システムが効率的であることは、歴史的にも証明されたが、それが不自然で不愉快で不平等なシステムであることも証明された。われわれの社会がもう十分豊かだと思う人は、これ以上の経済成長よりも静かで平等で安定した社会を求める「反資本主義」を構想することも可能だと思う。しかしそれには『蟹工船』レベルのお涙ちょうだいではなく、ニーチェやハイデガーにつりあうぐらいの超人的な知性が必要だ。