
まず問題なのは「タテ社会」というタイトルだ。これは著者もミスリーディングだと認めているのだが、もう定着してしまった。本来これは日本社会はヨコの連携の弱い小集団の集合体だという意味で、集団内ではむしろタテの階級構造があまりなく(建前上は)平等に近い。小集団はイエ(家族)とムラ(村落)の2層構造になっており、同じムラの中でもウチとヨソは違うが、つきあいはある。ただムラを超えた交流はほとんどなく、近世以前は国家意識はまったくなかった。
この構造は、日本人が思っているほど普遍的な「共同体」ではなく、アジアでも他の国にはほとんど見られないという。東南アジアでは個人間のネットワークはもっとゆるやかで、一人が多くのネットワークに同時に所属し、その所属もしばしば変わる。これに対して日本人の小集団に対する帰属意識はきわめて強く全人格的で、ほとんど変更されない。これは学校や職場にも持ち込まれ、学歴や職歴が一生ついてまわる。
こうした小集団――組織でいう現場――の自律性と機動性が世界でもまれに見るほど強いのが、日本社会の最大の特徴だ、と著者はいう。日本企業でも「工場長あって社長なし」などといわれるが、本書はその理論的な説明が弱い。経済学者なら、たぶん繰り返しゲームで説明すると思うが、一般的なフォーク定理からはこういう特殊な小集団は出てこないので、何か日本固有の歴史的・地理的な環境が作用したのだろう。土地が狭く、水利圏があまり広くなかったことが影響しているのだろうか。
もう一つの問題は、こういう小集団をどうやって束ねるのかということだが、これについての本書の説明は「軟体動物」というメタファーに依存していて弱い。ゲーム理論でいうと、長期的関係による「暗黙の契約」の拘束力が強いので実定法は必要なく、農民は武器を取り上げられたので戦争も少ないから、ムラをまとめる強いリーダーシップもいらない。兵士が優秀だから将校が無能でもいいのだ。
ただ近代国家となるとそうもいかないので、ここにプロイセンの行政中心の実定法主義を接ぎ木したわけだ。しかし川島武宜も嘆いたように、明治期に輸入された大陸法の体系は、ついに日本に根づかなかった。もし岩倉使節団がイギリスの君主制を学んでいたら、日本の近代化はもっとスムーズにいったような気もする。
日本の歴史についてでしたら、別の方がいろいろ言うでしょうから、私は何も言いません。それよりも、まさに今です。
日本の統治機構をプロイセン型からイギリス型に変更するということ、これこそが小沢イズムの根底にあるものですね。自由党時代は、「それは無理というものです」といった感じでした。しかし民由合併以後、民主党の主目的になり、実現しつつあるというのが今でしょう。
民主党の議員は、いわゆる反小沢派の人たちも、一部を除けばイギリス型への変更を是と考えているように見えます。たとえば、岡田幹事長は、しばしばイギリスの政治を事例にします。
私は、これについては、理屈も何もなく、ただただ直感的に反対なんですよ。それではいけないのは分かっているのです。しかし、理論武装できなくて、感情的に反発するだけという、情けない有様です。
統治機構をイギリス型に変更するという作業は、ほとんど革命に近い作業です。官僚バッシングなどとは桁違いの国家改造になるでしょう。第三者の冷静な議論が必要だと思います。自民党内は、アメリカ型がいいだのフランス型がいいだのと言い出すバカが大勢いたりして、どうにもなりません。