昔、経済学史のワークショップに出たことがある。学説の解説ばかりで退屈したので「経済学はself-interestを扱うのに、なぜ経済学者だけは私利私欲なしに真理を探究するすることになっているのか。実際には、みんな学界で出世するのが目的じゃないのか」と質問したら発表者が絶句してしまい、根岸隆氏が「おっしゃる通り経済学者もself-interestでやってるんだが、それを論じると社会学になってしまう」と助け船を出した。

昨今の経済危機について経済学者が何もいえないのも、こうしたバイアスが影響している、とSteven Levittは書いている:
In my opinion, the fundamental problem is this: from a modern academic perspective, the sorts of skills that accompany having a good working knowledge of the macroeconomy are not easily measured by, and are not rewarded in, the current incentive schemes for economists.

The single easiest way to make a mark in a modern macro paper is to solve a problem that is really, really hard mathematically. Even if it is not that relevant to anything, it is seen as a sign that the author has “impressive skills,” which is enough to get a job - and even tenure sometimes - at top universities.
画期的な経済学の業績には、数学的に難解なものはあまりない。ハイエクやコースの論文には数式は1本もないし、フリードマンの数式は高校生でも読める。むしろそういう論文で本質的な問題を解くほうが、数式だらけの論文を書くよりはるかにむずかしい。だから普通の経済学者にとってはそういう厄介な(しかし重要な)問題を避け、計測可能な数学的スキルに特化することが、アカデミックに出世する上では合理的だ。これは企業が「成果主義」をとると、計測しやすい営業部門などに業務が片寄るバイアスと同じだ。

特にマクロ経済学では、Levittもいうように最近はmicrofoundationがないと論文が受理されないので、経済全体の動きを個人の条件つき最適化行動の集計として説明しなければならない。これは雲の動きを量子力学で予測しろというようなもので、「もののたとえ」以上のものではありえない。だからといってマクロ経済学は必要ないということにはならないが、彼らのバイアスを知っておくことは有益だろう。特に官僚は数字に弱いので、いい加減な「マクロモデル」を見せられると信じてしまう傾向があり、これがいつまでも「どマクロ政策」が横行する一因ではないか。