民主党の鳩山新代表の公約をみて驚いた。最初にかかげられている最重点項目は「霞が関から市民への大政奉還」である。もののたとえだとしても、21世紀の政策にこういう儒教思想が出てくるのは、彼の官僚機構についての認識の甘さをうかがわせる。

大政奉還という言葉は、倒幕派の「王政復古」の思想に対応する。儒教では「王道」に対して、武力で政権をとる「覇道」を邪道と考え、特に日本では万世一系の天皇が征夷大将軍を任命したと考える。いわば天皇がプリンシパルで幕府はエージェントだから、後者が前者の意に沿わない場合は解任するのは当然、という発想だ。ここで「奉還」されるのは天皇から委任された権力であって、鳩山氏が想定している国民主権ではない。

これは単なるワーディングの問題ではない。このようにして奉還された天皇の大権が、明治以降の官僚機構のよりどころだったからだ。鳩山氏がこのような日本の官僚機構の儒教的な性格に無自覚であるかぎり、霞ヶ関を本質的に変えることはできない。坂本多加雄も指摘したように、日本の官僚は西洋的なテクノクラートではなく、科挙以来の伝統を受け継ぐ儒教的な知識人であり、そこに彼らの権威の源泉があるからだ。

科挙についての解説書を読むと印象的なのは、テクノクラートとしての技術を問う科目がまったくないことだ。科挙の問題は時代によって変化したが、四書五経を暗記して解釈することと、詩を書くことという基本は変わらなかった。これは官僚としての実務能力を問う役には立たないが、彼がすぐれた記憶力・表現力をもつ文人で、国家の命令に忠実に従うことはわかる。

つまり科挙は、特定の専門的な成果(performance)を問う試験ではなく、任意の問題を処理する能力(competence)を問うシグナリングなのだ。この場合、問題の内容には意味がなく、それを解くコストが小さいことをシグナルできればよい。この伝統は日本の大学入試や就職試験にも受け継がれ、企業は学生がどんな専門知識をもっているかは意に介さない。偏差値の高い学生は、つまらない仕事でもこなせる順応性が高いことをシグナルしているのである。

いいかえれば儒教的な官僚は、ウェーバー的な専門人ではなく、「君子は器ならず」といわれたように、特定の器にはまらないで法律から文学まで幅広い教養をそなえたジェネラリストであり、最高の知識人なのだ。彼らの力の源泉は、許認可権などの法的な権力だけではなく、それが知的な権威と統合されていることにある。したがって優秀な学生は官僚になり、それによって官僚の権威が高まる・・・という循環によって、彼らの実質的な権威は政治家よりはるかに大きい。

このように霞ヶ関は、三権分立といった西洋的な国家機構とはまったく異なる独特な構造をもっている。それは法律の建て前では、立法府に従属する行政府でしかないが、実態は政策立案や立法の機能を兼ね備えた非公式の最高権力である。公務員制度改革で問題になった職階法にみられるように、法律が成立してもそれを50年以上にわたって無視し、明治以来の「高等官/判任官」のシステムを守ってきた。

しかし、かつては権威と権力が一致して安定していた霞ヶ関の力は、日本経済が成熟して彼らの「開発主義」的な指導を必要としなくなると衰えてきた。かつては天下りを求めた民間企業も拒否するようになり、「君子」としての生活が保障されなくなると、優秀な学生が公務員をきらう・・・という悪循環が始まり、権威と権力のmisalignmentが起こり始めている。霞ヶ関で最近よく聞くのは、「このごろの新人は文章が書けない」という嘆きだ。これは過渡的には危険だが、最終的には権力は権威(の低下)に従うだろう。

ただ100年以上にわたって蓄積されてきた霞ヶ関の「暗黙知」の集積は莫大なもので、政治家がそれに対抗することは容易ではない。GHQでさえ手をつけられなかった組織を、「大政奉還」なんてとぼけたことをいっている民主党が壊せるとは思えない。「官治国家」を倒す闘いは、大政奉還のような甘いものではなく、儒教的な意味での「革命」に近いからだ。