「希望」の話はまだまだ続き、今度は平岡公彦氏からむずかしいTBが来た。この問題がデリダやニーチェとつながるのは自然なので、少し立ち入って考えてみよう。

デリダは『マルクスの亡霊たち』の中で、メシアニズム(messianisme)とメシア的なもの(le messianique)という区別を導入した。これは彼独特のわかりにくい用語法だが、簡単にいうとメシアニズムというのはキリスト教のように特定の目的をもつ積極的な救済、メシア的なものというのは「今とは違う状態」を求める否定的な救済である。いうまでもなくデリダが依拠するのは後者で、その観点からマルクスのメシアニズムを批判する。

マルクス主義は一度も幸福な社会を築いたことがないが、100年以上にわたって大きな影響力を持ち続けてきた。その最大の求心力は、現在の社会を全面的に否定して救済を求めるメシア的な希望を生んできたためだ、とデリダは考える。現状への不満はすべての社会にあり、そういう批判を「今ここにはない未来」へと水路づけすることで、マルクス主義は多くの反体制運動を束ねるイデオロギーとなってきた。

マルクスは「自由の国」の設計図を描くことを慎重に避けた。それは本源的な市民社会の否定の否定というメシア的なものとして構想されていたからだ。しかしその社会的な生産管理というメシアニズム(千年王国主義)が、社会主義国で「生産手段の国有化」として実行に移されたとき、破滅的な結果をまねいた。メシア的なものは、それがメシアニズムとして実現した瞬間に権力装置となり、みずからを裏切るのだ。

終戦直後には、豊かな社会を築くというわかりやすい物語があり、それに対するインテリ業界の傍流の物語として、マルクス主義や丸山眞男的な近代主義があった。しかしこうした希望の物語は、1970年代に高度成長が終わったころから崩れ始め、90年代に社会主義と資産バブルが崩壊したことで決定的に解体した。

現代の不安の根っこには、このような大きな物語としてのメシアニズムが失われた喪失感がある。資本主義は成長という希望の物語をつむぎ続けることができなくなり、それに寄生してきたマルクス主義もメシア的な求心力を失った。一時はメシアニズムなきメシア的な存在だった社民党が、期せずして政権についてメシアとなった途端に崩壊してしまった光景は、偽の希望が失われた時代を象徴していた。

かつてのマルクス主義に代わる現代のメシア的な希望は、たぶん起業だろう。ホリエモンや村上ファンドに「反体制」のにおいがあったのは偶然ではない。しかし彼らは国家権力によって圧殺されてしまい、物語のまったき不在が全面的ニヒリズムを生み出した。無目的に巨額の税金をばらまく自民党は、ある意味では日本的ニヒリズムの極北といえよう。

あまりにも救いのない状況が20年近く続いたため、若者は希望を求めることも忘れ、終身雇用に回帰しはじめている。しかし実は、もう会社にも帰るべき共同体はない。すべての対立軸が溶解したいま必要なのは、ニーチェが説いたように、希望が存在しないという根源的不安に向き合うことかもしれない。パンドラの箱が開いてあらゆる災厄が出たあと、残ったのは希望だったが、むなしい希望こそゼウスが人間に与えた最悪の災厄だったのである。