池尾・池田本で意見が違う点はあまりなかったのだが、ほとんど唯一違ったのが「バブルは事前に防げるか」という問題だった。私は「バブルを予防するのは無理だ。政府や中央銀行にできるのはバブル崩壊のショックを緩和することだけだ」といったが、池尾さんは「それはFEDビューで、今回の問題の元凶になった。BISビューではバブルについての客観的基準を設けようとしている」という。

バブルの生まれようとしているとき「これはバブルだ」というとバカ扱いされるが、あえてやると、私は環境が次のバブルだと思う。オバマ政権の最大の柱も、日本の追加補正も「環境」とつけば何でも通る状態だ。10年ほど前に「IT」といえば何でも通ったのとよく似ている。そして環境問題そのものは悪いことではなく、長期的にみれば化石燃料がなくなることも明らかだ。ITが21世紀の基幹産業になることが今でも間違いないのと同じだ。バブルは、長期的には正しいのだ。問題は、それが今ビジネスになるかどうかである。

本書のような「提灯持ち」が出てくるのも、バブルの兆候だ。著者の前著『フラット化する世界』は、グローバル資本主義によって世界はフラットになり、アメリカ型ライフスタイルが世界中に広がる、という2000年代のバブル的言説の典型だった。こうした自民族中心主義は本書にも一貫しており、アメリカが環境にやさしいエネルギーを開発してエネルギー問題を解決し、地球温暖化を防いで人類を救うというストーリーになっている。

しかし、この夢物語には落とし穴がある、とRobert Samuelsonは指摘している。太陽光などの再生可能エネルギーが「ソフトエネルギー」として注目されたのは石油危機のときだが、それから30年以上たっても、その経済性は化石燃料や原子力にとても及ばない。密度が低すぎて、ビジネスとして成り立たないのだ。政府が補助金を出せば採算がとれるようになるが、それは自律的に持続可能ではなく、長期的にはかえってエネルギー効率は悪くなる。さらに地球温暖化に至っては、問題そのものが幻想かもしれない。

バブルというのは、行動経済学でいうフレーミングである。ITバブルが崩壊したとき、FEDはその再発を監視したが、住宅バブルは見逃した。今度も投資銀行ばかり見ていると、次のバブルを見逃すだろう。FEDが大量に供給した余剰資金が、石油などエネルギー分野に向かう兆候も見えている。こういうとき恐いのは、誰もが「次の本命」とみて投資が集中する分野である。世の中がみんなそのフレームにはまりこむと、どんな現象もそれに都合よく見える。本書はそういう錯覚の典型としてはおもしろい。