きのうNHKで「プロジェクトJAPAN」というシリーズの「プロローグ」を放送していた。スペシャルドラマ「坂の上の雲」を中心として、日本の近代史を追う3年もの長大なシリーズだ。プロローグだけで2時間半もあるが、資料フィルムで「平和主義」を説教する退屈な内容なので、途中で消した。

今どき、司馬遼太郎で近代史を語るセンスはいかがなものか。日清・日露戦争までは日本がアジアを指導した栄光の歴史だが、1930年代以降は軍が暴走した、という彼の歴史観では、日本の近代を統一的にとらえることはできない。軍だけを悪者に仕立てるご都合主義は、いまだに大江健三郎氏のような幼稚な歴史観として根強く残っている。

こうした歴史観を「自虐史観」として批判し、近代を「国民の物語」として描こうとしたのが「新しい歴史教科書をつくる会」の人々だったが、彼らは逆に司馬史観の栄光の歴史の延長上で昭和の戦争を描いただけだ。よくも悪くも、司馬史観の呪縛は強い。

最近はそうしたイデオロギーから距離を置き、ミクロな事実を拾い上げる「社会史」的な研究が多い。本書もその一つで、「国民意識」の形成をメディアから見たものだ。研究としては目新しくもないが、メディアがナショナリズムの形成の主役だったという事実は再確認する価値がある。著者もいうように、日清戦争は近代国家としての日本が誕生する「巨大な祝祭」だった。それを主催したのが軍だったことは確かだが、祝祭を演出したのはメディアである。

日本がなぜ勝ち目のない対米戦争に突っ込んでいったのか、というのは近代史の最大の疑問だが、最近の研究ではメディアの役割を重視するものが多い。二・二六事件のような軍事クーデタについても、当時の新聞は圧倒的に青年将校に同情的だった。対米戦争についても、軍の中枢では慎重論もあったのに、新聞は一致して主戦論だった。あの「空気」を読むと、対米開戦に反対することはむずかしかっただろう。

今も昔も日本のメディアに共通する特徴は、多様性の欠如である。かつて新聞が軍を絶対に批判しなかったように、今はテレビも新聞も総務省の電波政策は絶対に批判しない。それを批判する(私のような)者はブラックリストに載せられ、大手メディアには執筆も出演もできない。このような言論統制が破局的な結果をもたらすことは過去の歴史で明らかだが、その教訓も学ぶことのできないNHKが近代史を説教するのはおこがましいというしかない。