
今どき、司馬遼太郎で近代史を語るセンスはいかがなものか。日清・日露戦争までは日本がアジアを指導した栄光の歴史だが、1930年代以降は軍が暴走した、という彼の歴史観では、日本の近代を統一的にとらえることはできない。軍だけを悪者に仕立てるご都合主義は、いまだに大江健三郎氏のような幼稚な歴史観として根強く残っている。
こうした歴史観を「自虐史観」として批判し、近代を「国民の物語」として描こうとしたのが「新しい歴史教科書をつくる会」の人々だったが、彼らは逆に司馬史観の栄光の歴史の延長上で昭和の戦争を描いただけだ。よくも悪くも、司馬史観の呪縛は強い。
最近はそうしたイデオロギーから距離を置き、ミクロな事実を拾い上げる「社会史」的な研究が多い。本書もその一つで、「国民意識」の形成をメディアから見たものだ。研究としては目新しくもないが、メディアがナショナリズムの形成の主役だったという事実は再確認する価値がある。著者もいうように、日清戦争は近代国家としての日本が誕生する「巨大な祝祭」だった。それを主催したのが軍だったことは確かだが、祝祭を演出したのはメディアである。
日本がなぜ勝ち目のない対米戦争に突っ込んでいったのか、というのは近代史の最大の疑問だが、最近の研究ではメディアの役割を重視するものが多い。二・二六事件のような軍事クーデタについても、当時の新聞は圧倒的に青年将校に同情的だった。対米戦争についても、軍の中枢では慎重論もあったのに、新聞は一致して主戦論だった。あの「空気」を読むと、対米開戦に反対することはむずかしかっただろう。
今も昔も日本のメディアに共通する特徴は、多様性の欠如である。かつて新聞が軍を絶対に批判しなかったように、今はテレビも新聞も総務省の電波政策は絶対に批判しない。それを批判する(私のような)者はブラックリストに載せられ、大手メディアには執筆も出演もできない。このような言論統制が破局的な結果をもたらすことは過去の歴史で明らかだが、その教訓も学ぶことのできないNHKが近代史を説教するのはおこがましいというしかない。
主要メディアである新聞や小説を書くことに使われる言語がその国の<国語(公用語)>だ…というのが近代国家の定義の一つでしょうが。GHQの命令で設立された国立国語研究所の当初の目的が「日本語の消滅」だったらしく、それが国立機関だというところが日本という国家なり政府なり指導層の本質?を現わしていると思います。石原慎太郎が日本を守ろうとしたのはむしろ左翼かもしれない、といったアイロニー?も説得力があるかもしれない。
ルアンダで英語を使うツチ族の大量虐殺を諮ったフツ族の後ろ盾(象徴的に。全面的にではない)はミッテラン大統領だったというのは、フランス左翼がフランス語(とフランス国家)のために何でもしたという事実は衝撃的です。
田中克彦の『「スターリン言語学」精読』を読むとスターリンが少数民族ために国語を設定しなかった事実が書いてあリ驚きました。いまだに左翼vs右翼、マルクスvs反マルクス程度で語ってるレベルでは現代の何一つ理解も解決もできない気がします。
日本は中間集団のKYを持ってして国家と権力の維持をはかろうとする世界に類を見ない社会かもしれない。村八分が国家を支えるファクターだとしたら漫画ですけど、それがある程度現実でもあるでしょう。笑える。