小倉氏のブログは、あいかわらずネタの宝庫なので、枕に使わせてもらう。きのうの記事では、こう書く:
マルクスは資本主義の研究者としては一流だったので,資本主義社会を分析するにあたっては,マルクスが開発した諸概念を用いることは有益ですから(そもそも"Capitalism"(資本主義)自体,マルクスの造語ですし。),当然のことなのですが。
これはもちろん間違いである。マルクスのテキストに資本主義(Kapitalismus) という言葉は一度も出てこない。これを初めて使ったのはゾンバルトである(Wikipediaにも書いてある)。これは経済史の常識であり、こんないい加減な知識で、わかりもしない「階級闘争」を語るのはやめてほしいものだ。

よく「資本主義」と「市場経済」を同じ意味に使う人がいるが、両者は別の概念である。ブローデルもいうように、資本主義の核にあるのは不等価交換によって利潤を追求するシステムであり、それは等価交換を原則とする市場と対立する。資本主義は、等価交換によって利潤(不等価交換)を生み出すシステムであり、この矛盾がさまざまな軋轢を生んできた。

『資本論』で圧倒的に多く使われる概念は、資本主義ではなく市民社会(burgerliche Gesellschaft)である。これを「ブルジョア社会」と訳すのは誤りで、これはヘーゲル法哲学からマルクスが受け継いだ概念である(最近の言葉でいえば市場経済)。ヘーゲルにおいては「欲望の体系」としての市民社会の矛盾は国家によって止揚されるが、マルクスは国家は市民社会の疎外態だと考え、それを廃止することによって真の市民社会を実現する革命を構想した。

マルクスが生前に完成した『資本論』第1巻には、階級という概念は出てこない。「諸階級」が出てくるのは、第3巻の最後の「三位一体定式」の部分である。階級対立は剰余価値によって生み出される二次的な関係であり、マルクスの理論の本質ではないのだ。またマルクスは「平等」を求めたこともない。彼が理想として掲げたのは「私的所有」を廃止して「個人的所有」に置き換え、「自由人のアソシエーション」を築くことだった。これは今の言葉でいえば、労働者自主管理に近いが、それもユーゴをはじめとして失敗に終わった。

つまり資本家が私的所有によって資本を独占する生産様式は、市民社会に寄生して本源的な価値の源泉である労働を搾取するシステムで、それを転倒して自立した市民が生産手段を共有して自覚的に生産をコントロールする、というのがマルクスの構想した未来社会だった。これは「強い個人」がみずからの主人になるという思想で、リバタリアンに近い。つまりマルクスは(ハイエクと同じく)きわめて正統的なモダニズムなのである。その派生的な結論として導かれた「階級闘争」とか「プロレタリアート独裁」などの概念が間違っていたことは、彼の決定的な限界ではない。

むしろマルクスとハイエクがともに依拠した西欧的な市民社会の概念が、どこまで普遍的なモデルなのかが問題だ。歴史的には市民社会が普遍的ではないことは自明であり、「欲望の体系」が人々の感情を逆なでする不自然なシステムであることも、ヘーゲルが指摘した通りだ。しかしそれが西欧文化圏の奇蹟的な成長を可能にし、それ以外のモデルがすべて失敗に終わったことも事実である。マルクスは、階級対立を生み出さない純粋な市民社会としてのコミュニズムが可能だと考えたが、それは間違いだった。欲望を解放する市民社会は、必然的に富の蓄積によって不平等な資本主義を生み出すのである。

つまりわれわれは「不自然で不平等な市民社会が、物質的な富を実現する上ではもっとも効率的だ」という居心地の悪いパラドックスに直面しているのだ。これを拒否するか受け入れるかは、ある意味で歴史的な選択である。「新自由主義」を否定して、政府が不況で困った個人や企業をすべて救済し、それによる財政赤字をまかなうために税率を70%ぐらいに引き上げる国家社会主義も、一つの政策だろう。そうやってゆっくり衰退してゆくことが、日本にとって現実的に可能な唯一の選択肢であるような気もする。