派遣村についての短い記事には驚くほどの反響があり、毎日のように取材が来る。きょうもCSの番組で話したが、気になったのは私が「労働を市場原理にまかせればすべてOK」と主張していると受け取り、「市場原理主義」を批判するパターンが多いことだ。以前の記事でも示唆したように、労働サービスには普通の商品とは違う特性があり、それを無視しては派遣の問題は語れない。

本書のテーマとするsocial capitalは、ベッカーの人的資本が個人を単位としているのに対して、社会的なネットワークが資本としての価値をもつと考える理論である。その典型が日本の企業だ。トヨタがあれだけ高い効率を実現できるのは、従業員が思考様式や行動様式を共有し、命令しなくても自発的に協力するシステムができているからだ。終身雇用は、そうした社会的資本を蓄積する手段だった。

大企業の周辺には下請けネットワークがあり、彼らが雇用のバッファの役割を果たしていた。大企業と中小企業の賃金格差が2倍近い「二重構造」は戦後ずっとあるもので、その背後にはさらに低所得の農村というバッファがあった。しかし1970年代以降、農村の「失業予備軍」が底をつき、1990年代の長期不況で下請けが切られて系列ネットワークが崩壊したため、バッファが派遣労働者という形で露出してきたのである。

だから湯浅誠氏のいう「溜め」を再建することは重要なのだが、それは非常にむずかしい問題で、厚労省に生活保護を求めても実現しない。社会的資本の古典として知られるパトナムもいうように、近代社会が原子的な個人に分解される傾向は不可逆なのかもしれない。それによって日本社会の同質性が失われることは、イノベーションの源泉になる一方で、製造業の高い効率を支えてきた信頼ネットワークの「資本価値」を低下させるだろう。

ただ本書も示唆するように、サイバースペースで新たな人的ネットワークが形成される可能性もある。アメリカでは、今やEメールよりSNSが主要な通信手段となりつつある。それは地域コミュニティや企業コミュニティのような親密なつながりを欠く稀薄なネットワークだが、逆にそこからオフラインのグループができる例も多い。コミュニケーションを求める欲求は食欲や性欲と同じぐらい根源的なので、一日中ケータイで通信している若者を見ていると、日本でも「サイバーコミュニティ」が実現するかもしれないという気がする。