今年は、ケインズがあらためて注目された年だった。マルクスは完全に葬られたが、ケインズはまだ成仏していないようだ。今ごろ墓場からよみがえるのは彼も本意ではないと思うので、その意義と限界を簡単にまとめておこう(この記事は入門的ではない)。

『一般理論』は非常に難解な本である。脱線や重複が多く、前後で矛盾していて、統一的な理論モデルがどこにも書かれていない。これは「ケインズ・サーカス」という研究会の記録をもとに書かれ、コアになったのはリチャード・カーンの乗数理論だったので、正確にはカーンとの共著だといわれる。この研究会のメンバーだったジョーン・ロビンソンも「ひどい本だ」と評した。特に岩波文庫の訳本は、絶対に読んではいけない。

乗数については、1933年にカレツキが(ポーランド語で)発表した理論のほうが数学的に明快だ。彼が依拠しているのは新古典派ではなくマルクスで、剰余価値率(マークアップ)が一定の固定価格経済を明示的に仮定している。所得が乗数倍になるためには、所得の増加によって需要が拡大しても価格が変化しないことが必要条件だからである。カレツキは、現代社会では価格が自由に調整されるのは生鮮食料品のようなマージナルな商品で、中核となる工業製品はマークアップで価格づけされていると論じている。

同様の議論はClower-Leijonhufvudなどによって行われ、Barro-Grossmanに集大成されている。ただBarro自身がのちにこの種の不均衡理論を放棄したように、不均衡状態で価格がなぜ変化しないのかという理由がはっきりしない。新古典派的な凸の戦略空間を考えると、需給ギャップは長期的には価格で調整されて不均衡はなくなるはずだ。この点を理論的に明らかにしたのがMankiw-Romerに代表される「新ケインズ派」で、コーディネーションの失敗(非凸性)があるときは、不均衡状態がナッシュ均衡になってしまうことを明らかにした。

現状は世界規模の取り付けによってコーディネーションの失敗が生じているので、ケインズ的な状況だという理解は必ずしも間違っていない。こうした複数均衡状態では「よい均衡」の所在を知っている賢明な政府が民衆を正しい解に導くことが望ましい、というケインズの思想はマルクスと同じで、こうした計画主義が20世紀後半の経済政策を支配した。しかし問題は、政府が正しい解を知っているのかということだ。

ケインズ自身は『一般理論』の均衡理論的な解釈を否定し、大恐慌では不確実な未来についての悲観的な予想によって過少投資が起きるので、政府がリスクをとるべきだと強調した。これは意外なことに、Lucasの考え方とよく似ている。彼はWSJに寄稿したエッセイで、FRBがリスク資産を買う非伝統的な金融政策は、従来の意味での金融政策というより、政府部門がリスクを負担して「悪い均衡」を脱却する政策だと理解している。

ただ悪い均衡を脱却しても、実際の戦略空間は非常に複雑なので、どこによい均衡があるかは誰にもわからない。もちろん政府が知っているとも限らない。したがって政府が特定の部門に裁量的に支出して、よい均衡に導こうとするケインズ政策は、有害無益な浪費に終わることが多い。悪い均衡を脱却したあとは、民間の経済主体が自律分散的にリスクをとって新しい均衡をさがすしかない。

こういうコーディネーションの問題を、集計的な総需要の不足として表現したケインズの理論は、彼の時代にはやむをえなかったとはいえ、きわめてミスリーディングなものだ。「需要が不足している」という話は、なぜ不足しているのか、そして不足がなぜ価格で調整されないのかを明らかにしないかぎり、説明にはならない。だからケインズの診断は正しかったが、その学問的表現は誤っており、不均衡状態を政府が解決できるという彼の処方箋は、社会主義に代わってパターナリズムの温床になった。彼をつつしんで葬送し、21世紀にふさわしい処方箋を考えることが、われわれの仕事だろう。