ひところ「世界標準」だとか騒がれたインフレ目標も、本家のバーナンキが沈黙し、クルーグマンが撤回し、スティグリッツも否定して、誰もいなくなった。10年前の日本のデフレで有効なら、ほとんど同じ状況の今のアメリカでも有効なはずだが、それを提唱する経済学者がひとりもいない「世界標準」って何なのか。

自称リフレ派の議論には、二重に誤りが含まれていた。まず第一に、欧州の一部の国で採用されているのは、インフレを抑制するために中央銀行が通貨供給を絞る物価安定目標だが、スティグリッツもいうように、今のような非常事態に、資産価格も信用不安も無視して物価水準だけを政策目標にすることはありえない。現実にもインフレ目標を採用しているのは、ドルなどのペッグから変動相場制に移行して、物価を安定させなければならない小国が多い。

第二に、リフレ派が騒いだのは人為的インフレ政策で、これは物価安定目標とは理論的にも実務的にもまったく別だ。両者を混同してインフレ目標と呼んだのが混乱のもとだった。クルーグマンも認めたように、中央銀行がデフレをインフレにする手段はない。日銀の「時間軸政策」は、長短金利差を縮める効果があったというのが白川総裁の評価だが、これはインフレ目標とは別の単なる金融緩和だ。

したがって特定の物価上昇率にコミットするという意味の強いリフレは、誰も主張しなくなった。いまFRBなどがやっている非伝統的な金融政策は、目標を設定しない弱いリフレだ。理論的には、すべての長短金利がゼロになるまでFRBがあらゆるリスク資産を買いまくれば一定の緩和効果は出るだろう。しかしそれによってFRBに巨額の損失が出たら財政で穴埋めされ、財政赤字がさらにふくらんで、ドルの暴落で危機が拡大するリスクもある。

リフレ派の議論は、期待形成やmicrofoundationの欠けたいい加減な話が多い。たとえば岩田規久男氏の『デフレの経済学』は素朴なIS-LMモデルだが、この種の理論には期待が入っていないので、そもそもインフレ期待の効果を論じることはできない。クルーグマンの論文には期待が入っているが、外生的に与えられているので、中央銀行がそれをどうやって操作するかは「経済学の領域外の問題」だと彼自身が認めている。

当時はいろいろ愚劣な議論があって、「バーナンキ=野口の背理法」というのもあった。これは日銀が通貨供給を無限に増やせば(メカニズムは不明だが)いずれインフレになるはずだという無責任な話で、過剰な通貨供給のコストはゼロだと想定している。それに近いことを実際にやったのが2003年のテイラー=溝口介入だが、結果的には円キャリー取引でアメリカの住宅バブルを促進し、円安で輸出産業に所得を移転して輸出バブルの原因になった。異常な金融政策のコストはゼロではないのだ。テイラーも、今回はリフレを否定している。

金融政策は、本質的な改革までの時間稼ぎにすぎない。リフレ派は金融政策でごまかしていれば経済は自然治癒すると思っているのかもしれないが、そんなことは絶対に起こらない。そもそも彼らの使っている古い「どマクロ理論」には長期の変数が入っていないので、長期については何もいえない。金融政策は短期の補助的な政策で、長期の成長率を変えることはできないというのは、世界の中央銀行のコンセンサスである。

だからテイラーもいうように、まず経済をどう立て直すのかという長期戦略を設定することが重要だ。アメリカの場合は金融システムの再建、日本の場合は資本・労働市場の改革で国内産業の効率を高めることが長期目標だろう。短期の政策はそれと時間整合的でなければならないというのが最近の経済政策の考え方で、行き当たりばったりのバラマキ財政や資金需要を超えた異常な超緩和政策は、また意図せざる副作用をもたらすおそれが強い。