ランドの本が過ぎ去ったリバタリアンの時代の教典だとすれば、これから来る(かもしれない)リベラルの時代の教典は、ロールズの『正義論』だろう(邦訳はおすすめできない)。とはいえ、この難解な大著を読むのは骨が折れる。本書はロールズを中心にして、一方ではリベラル対リバタリアン、他方ではリベラル対コミュニタリアンの間で起こった論争を概観したものだ。これだけ読んでも内容はわからないが、読書案内としては便利だ。

ロールズの本を批判したのは、ノージクの『アナーキー・国家・ユートピア』である。これは夜警国家的な「最小国家」以上の政府の介入はすべて自由の侵害であり、公平な分配なるものは存在しないとロールズを批判したもので、リバタリアンの必読書である。経済学者の多数派もノージクと同じ意見で、公共財の供給など「市場の失敗」が起こる場合を除いて、政府の介入は正当化できないと考える。所得の再分配は政治的な問題で、理論的に最適な分配というのは決められない。

これに対して、コミュニタリアンの代表であるマッキンタイアの『美徳なき時代』は、逆にロールズのように公正の概念を「無知のベール」などの合理的な推論によって求めることが近代の錯誤であり、倫理の基礎は社会に共有される暗黙のコードとしての「共通善」に求めるべきだという。ここでは、リベラルとリバタリアンがともに前提している個人の自律性が否定され、人は生まれながらにコミュニティに埋め込まれた存在とされる。

リバタリアンとコミュニタリアンのどっちから見ても、ロールズの正義論は中途半端な論理的に矛盾した思想であり、ロールズ自身ものちにこの立場を撤回した。ただAsahi.comの記事にも見られるように、大衆レベルでは「公平」への欲求は効率より強いので、それについて何の基準も示さないリバタリアンは政治的な支持を得にくい。他方、コミュニタリアンはギリシャのポリスとか戦前の日本のような特定の時代を規範として絶対化する傾向が強く、思想的な普遍性をもちえない。

こうみると、リベラリズムは一種の政治的妥協であることがわかる。それは方法論的個人主義という点ではリバタリアンと共通だが、社会全体に共通の公正や公平などの価値が存在すると考える点ではコミュニタリアンに近い。大陸のポストモダンからみれば、どれも19世紀的モダニズムの変種にすぎないが、「哲学の後進国」であるアメリカが経済的地位とともに学問的プレゼンスも大きくなってきた。アメリカ的リベラリズムは思想的には退屈だが、これからの世界がそういう退屈な思想で動かされることは知っておいたほうがいい。