このごろ『文藝春秋』のお気に入りは、宮崎哲弥氏らしい。先月の座談会に続いて、きょう送られてきた1月号(10日発売)では「逆転の日本興国論」と題して、「現在の不況を克服し、日本経済の強みを発揮するために、最も優先されるべきはマクロ政策だ」とのべ、財政赤字への批判をこう一蹴する:
日本の赤字国債のほとんどは日本国内で保有されている。政府が借金しているのは日本国民に対してであって、外国に対してではない。だからこそ、これだけ国債を発行しても、価格が下落しないのだ。
なるほど、国内で債券を発行すれば価格は下がらないのか。それじゃ民間企業は、国内なら債券を無限に発行できる・・・わけないだろ。内国債か外債かということは、金利(債券価格)とは何の関係もない。金利を決めるのは、日本政府の支払い能力と債券市場の需給関係である。彼が混同しているのは、ラーナーが1948年の論文で主張した「内国債は世代間の負担にならない」という考え方で、私の学生のころには教わったが、今は財政学の教科書にも出てこない。税金も国債も同じだと仮定すれば、世代間の負担が生じないのはトートロジーだからである。

問題はそういう解釈論ではなく、実質的に世代間の負担が生じるかどうかだ。これについてはバーロの「中立命題」が有名だが、これは実証的には成り立たない。つまり国債と税金は同じではないので、世代間の負担は生じるのだ。国債を買う人は将来のキャッシュフローの割引現在価値と国債価格を均等化するので最適な資産運用ができるが、増税は可処分所得そのものを減らすので最適にはならない。内国債か外債かなんて関係ない(笑われるからやめたほうがいいよ)。違いは国債が自発的に買う資産であるのに対して、税金は強制的に徴収されるという点にある。

それより深刻なのは、「優先されるべきは構造改革よりマクロ政策だ」という発想だ。まぁ今はマクロ政策が必要だとしよう。それによって「需給ギャップ」が埋まったとしても、成長理論の言葉でいう定常状態に復帰するだけだ。ここ5年ほどの定常成長率は実質ベースで1%強だが、これに復帰したら「日本経済が元気になる」のだろうか。宮崎氏の賞賛するクルーグマンもいうように、マクロ政策は「根本的な解決にはならない」。成長率そのものを上げない限り、日本経済は元気にならないのだ。

このように長期の定常状態と、そこからの短期的な乖離の区別がつかないのが、自称リフレ派の特徴だ。彼らは暗黙のうちに短期の問題さえ解決すれば、なんとなくその延長上で長期の問題も解決すると信じているようだが、両者は別の問題である。それどころか、短期の問題の対策として過大な財政出動を行なうと、非効率な部門が温存されて長期の成長率が低下するというトレードオフが生じることもある。

ケインズの最大の誤りは、短期の景気循環だけを強調して、長期的な成長率を無視したことだ。アメリカでは苦しまぎれにケインズの亡霊が復活しているが、それが役立つかどうかはクルーグマンも懐疑的だ。金融政策がきかないから、財政政策を試してみるしかないというだけである。宮崎氏には、金子勝氏のような「シバキ的清算主義」に対して、リフレ派が「新しい経済学」に見えているようだが、これは学問的には30年以上前に否定された、ミクロ的基礎のないどマクロ経済学だ。

最近のマクロ理論の主流は、ケインズではなく新ヴィクセル派である。ここではマクロ政策は、定常状態で決まる自然率からの乖離を是正する手段で、自然率そのものを変えることはできない。自然率を変えるには、労働生産性や資本効率を向上させるミクロ的な規制改革が必要なのである。経済政策を語るなら、大学院のマクロ経済学の教科書とはいわないから、せめて齊藤誠氏の本でも読んでほしいものだ。テレビに出るのもいいけど、もうちょっと勉強してよ、宮崎君。