今月のThe Atlanticのカバーストーリーは、ニコラス・カー"Is Google Making Us Stupid?"。内容はグーグルだけでなく、コンピュータやネットワークが人間の思考様式をどう変えるかという話だ。

読み書きは人間の本能ではなく、教育によって身につける能力なので、その過程は脳に影響を及ぼす。これまでは本や論文で長い文章を読むのが普通だったが、コンピュータによって画面を「ブラウズ」するようになり、情報が断片化している。またデータを忘れても、検索エンジンで入手できるようになったので、記憶力が減退する可能性がある。

こうした変化は、古くからあった。ソクラテスは、「文字に書くと、人々は内容を忘れてしまう」と書物を記さなかった。ホメロスの叙事詩もギリシャ悲劇も、暗誦して伝えられたものだ。韻文は、その記憶を容易にするための技法だった。グーテンベルクが活版印刷を実用化したとき、カトリック教会はそれを神の教えを広める技術として歓迎したが、印刷された聖書は教会による知識の独占を崩し、宗教改革や宗教戦争の原因となった。

コンピュータの普及によって、書物という大聖堂のように構築された形式はよけいなものになり、人々はデータベースの中から必要なものだけを取り出すようになった。長編映画よりも短いビデオクリップが見られるようになって作品としての自己完結性を失い、「ケータイ小説」は日本語としては読むに耐えない、感情的な言葉の断片だ。

インターネットで、かつて一部の人にしか入手できなかった情報が多くの人に共有されるようになったことは、大きな進歩だ。しかし記事がページカウントで序列化されると、ジャーナリズムが軽視され、新聞社は海外支局を縮小している。メディアがデータベース化すると、深い思想や芸術は表現しにくくなる。それは「コンピュータに知能をもたせて人間に近づける」というグーグルの理想とは逆に、人間の知能を平板化してコンピュータに近づけるかもしれない。