ASCII.jpのコラム「地デジのIP放送、なぜ東京ローカル?」に、鬼木甫氏(大阪学院大学教授)からコメントをいただいたので、そのまま掲載する:
「地デジのIP放送、なぜ東京ローカル?」を読んで、筆者は江戸時代の幕藩体制を連想します。「自由な移動を許さない」点で両者が共通しているからです。

江戸時代には国民がそれぞれの藩内に閉じ込められ、藩外への移動は関所によって制限(規制)されていました。このシステムは、藩主と藩の支配者(上級武士)が藩を統治し、藩内の農民から富(租税)を集める役を果たしていました。もし藩外への移動を自由化すれば、農民は暮らしやすい場所に移ることになり、農民からの収税の上に成り立っている体制が崩れるからです。そして全国にわたる藩の頂点に幕府があり、将軍を名目的リーダーとした幕閣が幕藩体制を動かしていました。つまりこのような幕藩体制は、武士による農民の支配を維持し、「中世的停滞(平和だが格差があり、進歩・変化がない)」を続ける役を果たし、その結果、近代型の経済発展や生活水準の向上を阻害していました。

そこに黒船の来航を契機として幕末の改革が始まり、来航後僅か15年で明治維新が実現します。当時の生活ペース、限られた情報伝達能力を考えれば、まさに驚異のスピード改革でした。幕藩体制を温存し、低水準の国力しか持たない状態を続ければ、日本は遠からず列強の植民地になる他はないと多くの人が一致して考えた結果でしょう。

明治維新以後は政治・社会構造だけでなく、経済環境も一変します。四民平等が職業選択の自由を、廃藩置県が移動の自由を実現しました。そしてその結果、国民それぞれが自身の生活向上を目指して働くために適所を求め、自身の労働と創意工夫を生かすことができる環境を実現する、つまり国民全体の巨大な勤労エネルギーを望ましい方向に解放することになりました。御承知のとおり、日本は維新後半世紀ほどで列強の仲間入りをするほどの国力を形成します。ただしその方向が軍事優先、海外膨張第一に設定されてしまったため、列国と対立して第二次大戦の迷路に入り込み、1945年の敗戦に到る道を辿ることになりました。戦後の改革や経済成長についてここでは触れませんが、明治維新について言えば、それがもたらした「経済自由化」が日本の経済面での近代化を実現したことには疑いありません。“Meiji Restoration”は、世界の多くの国の大学で講じられる「経済発展論」科目の重要ケースになっています。

「人の移動制限」を「放送情報の移動制限」に置き換えると、現在の放送業界は幕藩体制下の日本とよく似ています。視聴者が入手できる放送情報を県内に限定し、県内のテレビ広告収入の県外流出を堰き止めるように放送情報流通を支配(規制)しているわけです。放送が電波だけに頼っていた時代には(混信防止のために)必要でしたが、ケーブルテレビやインターネットの時代には不要な制限です。幕藩体制と同じく、移動の禁止や参入の制限は新しい発展を阻害します。放送メディアによる情報発信機会が狭められる結果、コンテンツ生産のインセンティブを抑制し、日本のICT発展のマイナス要因になっています。

江戸時代の幕閣に相当するのは、放送キー局の経営者でしょうか、あるいは総務省・文化庁のリーダーでしょうか。古い時代の利害を温存するという目的に国民から負託された権力(権限)を適用し、その結果国家の発展、国民生活の向上を遅らせているわけです。

この状態を改革するためには、何よりも「視聴者・国民の多数意見」が重要です。しかし、もう1つの可能性として、技術進歩から生ずる「外圧」を挙げることができます。遠洋航海術の発展と石炭動力の実現が黒船来航を可能にしたように、近い将来、ブロードバンド技術の発展が映像情報伝達コストを大幅に引下げ、待ったなしの改革エンジンになるものと予想します。YouTubeの出現は、「放送業界・同規制当局という幕藩体制にとっての黒船」あるいは少なくともその先駆ではないでしょうか。

黒船来航時の開港・通商要求に対し、一旦は国内に攘夷の気運が高まりました。それは、「改革要因の急激な出現に対する一時的反動」であったと考えられます。YouTubeとこれを支持する視聴者からの「情報の自由な流通の要求」に対し、現在これを「悪者扱い」にしているのも、相似た現象ではないでしょうか。幕末の攘夷の動きは、明治維新が近づくと泡のように消えてしまいました。

なお、YouTubeによる放送情報の流通と著作権の関連で付言しておきます。近代社会の1つの基盤が実物資産に関する「私的所有権」の確立にあったのと同じように、情報資産(コンテンツ)に関する「著作権」の確立が情報社会発展の必要条件であることには、もとより異論ありません。しかしながら、映像情報の生産者でなく、その仲介・流通の任に当たる事業者や団体が、既得権益を守るために情報流通に制約を加え、視聴者やクリエーターの利益を害していることは、農民を守ると称しながら政治権力と結び付いて米の買占め、独占に狂奔した商人・問屋の歴史と重なって見えてしまいます。
私も4年前に「電波封建制」という記事を書いたことがあるが、こういう日本の放送業界の前近代性や、匿名で群れるネットイナゴの「個の未発達」を見るにつけ、エマニュエル・トッドのいうように、意外に西欧近代というのは普遍的な価値をもつのかもしれないと思う。少なくとも、それをいったん通過しないで「市場原理主義」や「グローバリズム」を批判するのは、結果的には封建制を延命するだけだ。