
特に第1章で、解雇についての判例を「合成の誤謬」という経済学用語で説明している論理は、当ブログの記事とそっくりだが、重要な問題なのであらためて紹介しておこう。これは東洋酸素事件の東京高裁判決(1979)で示された、次のような整理解雇の要件である:
- 事業の閉鎖:事業部門を閉鎖することが企業の合理的運営上やむを得ない場合であること
- 解雇しかない:従業員を他の事業部門の同一又は類似職種に充当する余地がないこと
- 手続きの公平:具体的な解雇対象者の選定が客観的、合理的な基準に基づくものであること
しかもこうした手厚い労働者保護が正社員以外にも適用されるのかといえば、日本郵便逓送事件のように「長期雇用労働者と短期雇用労働者では雇用形態が異なり、賃金制度も異なることを不合理とはいえない」として、非正規労働者を差別する判決が出て、これが踏襲されている。このように歪んだ労働市場を作り出し、大量のフリーターやニートを生んだ責任は、第一義的には家父長的な労働行政にあるが、目先の事後の正義にもとづいて正社員だけを保護してきた司法の責任も重い、と本書は指摘する。
これは当ブログでも何度も指摘してきたことだが、法律家自身も、同じような疑問をもち始めているのは心強い。特に労働市場の流動化による生産性の向上が日本経済の最大の課題となっている今も、30年前の解雇権濫用法理が踏襲されているのはおかしい。本書も最後に提言するように、裁判官もビジネスの現場を見て世の中の常識を身につけるとともに、判例に耐用年数を導入し、たとえば10年たったら無効とするような制度(あるいは慣例)をつくってもいいのではないか。
追記:今週(あす発売)の週刊ダイヤモンドも「裁判がオカシイ!」という特集を組んでいておもしろい。
池田氏の視点は鋭い。
現在、医師の間での大きな不満は司法の暴走が医療崩壊の一因である、との認識が共通化している。産科の崩壊は司法によりもたられされたものであるのは事実であるし、それ以外にも警察検事による起訴とそれを甘受している裁判官の資質にも期待ゼロの諦めモード。
司法も所詮官僚組織という意味でいえば、司法の暴走を止める手段が最高裁判事の3年に一度のマルバツしか無いことが実に怖いことであり、ある意味で言えばほとんど国民による規制ができないのが司法である。
議員は数年に1回の国民の審判で毎日がまな板の鯉状態。
行政は、その議員により選ばれた総理大臣の命を受けるので、これも間接とはいえかなり規制されている。
司法のみが完璧に暴走が許されているのが現状。ただ、司法をチェックすることが国民に許されているのが憲法で規定されている実質効果ゼロの信任投票のみなのが形骸化の事例です。
いい方法ってないのでしょうかね?