いわずとしれた経済学の古典中の古典だが、これを最後まで読んだ経済学部の学生は、100人に1人もいないだろう。まず高い。私の学生時代までは、塩野谷九十九訳の古文みたいな分厚い単行本しかなく、5000円ぐらいした。その後も同じぐらいの値段の全集版(塩野谷祐一訳)しかなく、それをソフトカバーにしたバージョンが出たのは1995年。それでも3500円だ。私のような貧乏学生は、丸善から出ている500円の原著を読んだ。

東洋経済新報社は、ケインズの死後50年にわたって独占利潤を得たが、そのおかげでこの重要な本が読まれずに語られた弊害は大きい。著作権がいかに「反文化的」な制度かを示す好例だ。今度やっとパブリックドメインになって岩波文庫に入ったのはめでたいが、訳が最悪なので、ちゃんと勉強する人は原著を読んだほうがいいだろう。

しかし原著で読んでも、非常にわかりにくい。教科書に書いてあるIS-LMみたいな明快な分析はどこにもなく、哲学的な話が延々と書かれていて面食らう。大恐慌のさなかに政策提言としてバタバタと書かれたので、議論が未整理で曖昧なのだ。「古典派」が間違っている例として、いろいろアドホックな不完全性が挙げられるが、なぜそういう不均衡がずっと続くのか、という理論的説明はない。それなのに、有効需要が完全雇用をもたらす水準と一致するのは「特殊な場合」で、一般にはその必然性はない、という結論が何度も繰り返される。

要するに『一般理論』は、そのタイトルに反して、30年代の特殊な状況に対応して「失業対策に政府が金を出せ」という処方箋を書いた政治的パンフレットなのである。ケインズ自身が、師マーシャルの追悼文で、経済学者の本業はパンフレットを書くことだとのべている:
経済学者たちは、四つ折り版の栄誉をひとりアダム・スミスだけに任せなければならない。その日の出来事をつかみとり、パンフレットを風に吹き飛ばし、つねに時間の相の下にものを書いて、たとえ不朽の名声に達することがあるにしても、それは偶然によるものでなければならない。
経済学は、自然科学のように真理を探究する学問ではない。それは応用科学にすぎず、政策として役に立たなければ何の価値もないのだ。国際ジャーナルに載せるためには、定理と証明という形で論文を書かなければならないが、これは茶道の作法みたいなものだ。その作法を守らないと家元に認めてもらえないので、ポスドクのころは一生懸命に論文を書くが、終身雇用ポストを得るとやめてしまう。そんな作法が生活の役に立たないことをみんな知っているからだ。

しかしインターネットは、そういう状況を変えつつある。2年も3年もかけて国際ジャーナルに載せるより、本当に大事な論文はディスカッションペーパーでウェブに出して、いろいろな人に引用してもらったほうが有利だ。そして、いくら数学的に優美でも、政策的に意味のない論文はウェブでは相手にされない。これは健全な傾向だ。ケインズも言ったように、経済学はジャーナリズムだからである。手前味噌をいわせてもらえば、当ブログのような「パンフレット」こそ経済学者の本業かもしれない。