本書はハイエクのもっとも重要な著書であり、最近やっと日本でも注目されるようになった「法と経済学」の元祖ともいうべき本だ。邦訳はながく絶版だったが、新版が出たことは喜ばしい。

人々の利己的な利益の追求が「見えざる手」によって社会的にも望ましい結果をもたらすというスミスの憶測を、その後の多くの経済学者が証明しようとしたが、だれも成功しなかった。それはスミスの信仰にすぎなかったからだ。彼と同時代に、同様の信仰(理神論)に導かれてニュートンがつくった古典力学が、例外のない厳密な体系になったのに比べて、スミスの古典派経済学もその後の新古典派経済学も例外だらけで、とても科学とは呼べないお粗末なものだ。

ハイエクはこうした新古典派理論の欠陥は、経済秩序を支える法秩序を無視したことにあると考えた。自由な社会の本質は、それが無制限に自由であることではない。他人の物を盗むのも偽札をつくるのも自由にすれば、無政府状態になるだけだ(今のネットがそれに近い)。むしろ近代社会の特質は、何をしてはいけないかという消極的ルールの体系にある。それはプラトン的な賢人が定めたものではなく、西欧の数百年の歴史の中で試行錯誤によって形成されたコモンローである。

こうしたルールによって大きな富が築かれたのは、それが「資源の効率的な配分」を実現するからではない。ハイエクは、新古典派理論を科学的に見せかけている功利主義的な計算を否定し、自由な社会の特長は静的な効率性ではなく、さまざまな試行錯誤を許し、多様な選択肢を認めることにあるとする。進化にとって重要なのは、環境の変化に適応することであり、その自由度を最大化することで、自由な社会は結果的に進化して繁栄したのだ。

1937年の記念碑的な論文、"Economics and Knowledge"でハイエクは、市場経済についての新しい理論を創造した。古典派以来の経済学が分業(division of labor)を基礎に置くのに対して、ハイエクは価格の機能は知の分業(division of knowledge)にあるとした。市場は、各人が不完全にしか持ちえない知識を社会全体としてコーディネートするメカニズムなのである。だから物の分業を記述する新古典派理論は20世紀で終わったが、知の分業を分析するハイエクの理論は、21世紀の経済学になるだろう。

そういうわけで、いまハイエクについての小さな本を書いているのだが、テーマは予想以上に大きいような気がしてきた。先週の週刊東洋経済にも書いたように、今は主観主義の経済学という新しいパラダイムへの移行期なのかもしれない。オーストリア学派やヒュームなどにさかのぼって勉強し、「知識の経済学」についての学問的な本を書いてみようかと思っているので、出してやろうという版元があったら(右の欄の連絡先に)ご連絡ください。