最近の金融危機をめぐる報道で、「モラル・ハザード」という言葉がよく出てくる。新聞ではたいてい(倫理の欠如)と補足しているが、これは誤訳である。この言葉は保険用語で家の燃えやすさなどの"physical hazard"(物質的危険)と対になる概念で、Slateの記事にも書かれているように、moralは「倫理的」という意味ではなく"perceptual or psychological"という意味だ。つまり"moral hazard"は、保険に入ったことで防火を怠るなどの「心理的危険」のことである。

この言葉を経済学で初めて使ったのはKnightで、保険用語として使っている。これを情報の非対称性との関連で使ったのはArrowだが、ここでも「プリンシパルから見えないエージェントの行動」というテクニカルな意味で、道徳とは関係ない。日本では、内田樹氏のように「悪事」一般と混同する人も多く、「金儲けと犯罪の境目をユルユルにして現在に至っていることが、社会全体のモラルハザードを引き起こしているのではないでしょうか」などと説教するコラムニストもいるが、これはナンセンスだ。モラル・ハザードは悪党の行動ではなく、情報の非対称性を利用する合理的行動である。

この言葉が金融で使われるようになったのは、1980年代のS&L危機のときで、貯蓄組合が高金利の預金をジャンク債などのハイリスク商品で運用し、失敗しても預金保険で救済されるという本来の保険用語で使われた。これを防ぐには、リスクの高いエージェントの保険料を引き上げるなどの対策が有効で、倫理とは関係ない。今回の米政府の不良債権買い取り策についても、モラル・ハザードという言葉が必要以上に道徳的な議論を巻き起こし、政治家が反対する原因になっているが、これは事前のインセンティブについての概念なので、火事が起きてから道徳を論じても意味がない。