ファイナンス業界でケイマン諸島の名前を知らない人はいないが、そこに行った人はまずいないだろう。私は1995年に、行ったことがある。本書の最後に出てくるユーロバンク事件の取材だったが、驚いたのは島の異様な風景だ。空港のあたりは普通の熱帯の島なのだが、中心部にはまるでウォール街のように堂々たる高層ビルが林立し、それもシティバンクやバークレーズなど、世界の一流銀行ばかり。これが本書のテーマである「オフショア」の金融機関だ。

この島が一般の人々にも知られるようになったのは、エンロンがここに700ものSPV(特別目的会社)をつくって、損失の「飛ばし」をやった事件だろう。しかし、こういうトリックはありふれたもので、ユーロバンクやBCCIなど、脱税や麻薬やマネー・ロンダリングの事件には、必ずといっていいほどケイマンがからんでいた。ユーロバンクの場合は、ロシア・マフィアが旧国営企業の資産を盗んでケイマンに送金していた。

ケイマンの魅力は、法人税をほとんどかけないタックス・ヘイブンであることと、匿名で預金できる秘密主義である。特にケイマンにSPVをつくることによって節税を行なうのは、シティのような一流銀行も使っている合法的なテクニックだ。このため各国が競って法人税を引き下げる租税競争(tax competition)が始まり、税務当局の頭痛の種になっている。

これに対して、OECDなどがたびたび規制を試みたが、アメリカの反対で実現しなかった。ミルトン・フリードマンを初めとする200人以上の経済学者も、タックス・ヘイブンの規制に反対する公開書簡をブッシュ大統領に出した。その主な理由は
  • OECDのねらいは、課税カルテルである。各国が効率的な課税を競う租税競争は、自由経済にとって望ましい。
  • 保護主義は国際的な資金移動を阻害し、世界経済を収縮させる。
  • オフショアを規制しても、非合法な資金は地下に潜るだけで、かえって捜査は困難になる。
  • 法人税は不合理な二重課税であり、そうした税制の歪みが租税逃避を引き起すのだ。
しかし状況は、9/11で一変する。それまでオフショア規制に反対していたアメリカが、「テロマネー」を根絶するために、国家主権も人権も無視する強硬手段で、マネー・ロンダリングの摘発に乗り出したからだ。その具体的な状況は、テイラー『テロマネーを封鎖せよ』に描かれているが、結果的にはこの作戦は失敗に終わった。テロリストの金はケイマンからも逃れ、(経済学者の予想どおり)アルカイダのつくった「地下金融ネットワーク」に潜ったのだ。

他方、このブッシュ政権の強硬策は、ケイマン諸島の合法的なビジネスに大きな打撃を与え、資金は香港、シンガポール、バミューダなどに流出した。その結果、ケイマンの黄金時代は終わったが、アンダーグラウンドの資金はさらに複雑で見えにくい形で増殖している。このグローバル資本主義と主権国家の闘いは、これからも果てしなく続くだろう。

追記:先月も、リヒテンシュタインが欧州各国の警察の捜査を受けた。主権国家が、国家主権を否定し始めている。