昔、廣松渉のゼミでアルチュセールが話題になると、彼はよく「あんないい加減な読み方を『徴候的』などといって正当化できるなら、文献考証はいらない」と批判していた。アルチュセールのいう「認識論的切断」は、廣松の「疎外論から物象化論へ」という図式と似ていただけに、その読解のずさんさに腹が立ったのだろう。

事実、アルチュセールは晩年(といっても1980年に発狂する直前という意味だが)に書いた「限界の中のマルクス」という未発表の草稿では、初期の議論を撤回する。マルクスの歴史観は、疎外論どころかヘーゲルからも脱却できていない観念論であり、進歩主義的な目的論だと批判し、「自由の国」という透明な共同体としての共産主義はヘーゲルの絶対精神の焼き直しだ――という全面否定に近い評価をマルクスに下すのである。

彼は『資本論』の価値論も(英米の経済学者が指摘するように)論理的な矛盾をはらんでいるとし、その原因をマルクスが「端緒からの疎外」というヘーゲル的な図式を古典派経済学と接合し、主体=実体としての労働に本質を求めた点にあると批判する。さらに国家を単なる「上部構造」とみなすマルクスの国家論も、イデオロギーの本質的な機能を見誤った経済決定論だとした。そして最晩年にはマキャヴェリについての膨大な草稿を遺したまま突然、妻を扼殺し、狂気の闇に沈んだのである(*)

デリダの『マルクスの亡霊たち』は、この晩年のアルチュセールを踏襲している。資本主義の「亡霊性」を明らかにし、国家をイデオロギー装置として「脱構築」したマルクスへの「負債」は認めつつ、その根底にあるヘーゲル的形而上学を否定するアルチュセール=デリダの読解の延長上にしか、21世紀のマルクス理解はありえないだろう。それはマルクスを継承すると同時に清算することでもある。

本書は、1997年に出版された『アルチュセール 認識論的切断』という本の文庫版だが、よくある「構造主義的」なアルチュセール解説ではなく、死後に発見された膨大な未発表の原稿を踏まえ、その思想的な自殺までを追ったドキュメントである。著者も今年、死去したので、これが遺著になった。

(*)晩年のアルチュセールの論文は『マキャヴェリの孤独』に収められている。