沖縄の「集団自決」をめぐる訴訟に、きのう被告の大江健三郎氏が初めて出廷した。その尋問で、彼は「個人名は書かなかった」と逃げているが、こんな子供だましの論理が法廷で通ると思っているのだろうか。「慶良間諸島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男が、渡嘉敷島での慰霊祭に出席すべく沖縄におもむいた」(『沖縄ノート』p.208)という記述に該当する人物は、渡嘉敷島守備隊長だった赤松嘉次元大尉しかいない。「ノーベル賞をもらった日本人作家は精神的幼児だ」と書いたら、個人名を書かなくてもだれのことかわかるだろう。

致命的なのは、「守備隊長の個人名を挙げていないのは、集団自決が構造の強制力でもたらされたと考えたからだ。もし隊長がタテの構造の最先端で命令に反逆し、集団自決を押しとどめて悲劇を回避していたとしたら、個人名を前面に出すことが必要だった」という大江氏の弁解だ。多くの証言が示すように、赤松大尉はまさに軍の(暗黙の)方針に反逆して、集団自決を押しとどめて悲劇を回避しようとしたのだ。

だから大江氏が考えなければならないのは、守備隊長が止めたにもかかわらず、なぜ巡査や村長が村民に自決を命じたのか、ということなのだ。当時、13歳の軍国少女だった曽野綾子氏まで「2発の手榴弾を配られれば、1発をまず敵に向かって投げ、残りの1発で自決する」つもりになった空気とは何だったのか。その心の中をさぐるのが、本当の小説家だろう。先日、『SAPIO』の対談で曽野氏は「世の中には、真っ黒の悪人も真っ白の善人もいない。そんな小説を書いたら、新人賞にも通らない」といって笑っていた。

石原慎太郎氏が小沢一郎氏を(3歳で成長の止まった)『ブリキの太鼓』の主人公オスカルにたとえたが、大江氏こそ、この比喩にふさわしい。子供のころ愛媛県の山奥で勉強した「新憲法」への感動をいまだに持ち続け、朝日新聞や岩波書店のいうことを信じて中国や北朝鮮を礼賛してきた彼は、ある意味ではこういう偽善的な「進歩的言論」の犠牲者だ。

もっと罪深いのは、ここまで歴然とした事実誤認を指摘されながら、いまだに訂正もしないで『沖縄ノート』を重版する岩波書店である。年配の人には、岩波といえばまだ権威があるかもしれないが、業界では慢性的に「経営危機説」が流れている。特に2001年に倒産した中堅取次、鈴木書店に巨額の売掛金があったことから、連鎖倒産や朝日新聞社による買収などの噂が流れた。労組が共産党系で労使関係も最悪で、岩波の文化講演会に行くと、講演の前に労組の演説を聞かされる。特に経済学の分野では、「モダンエコノミックス」というシリーズを担当していた「近経」の編集者を組合が追放したため、執筆者が執筆拒否してシリーズは中断してしまった。

それ以来、岩波の経済書はマル経しか知らない編集者が担当しているので、金子勝、内橋克人、奥村宏などのマル経崩れの本ばかりで、読むに耐えない。ITについても、坂村健の同じような内容の本を8冊も出して、IT系の出版社から笑いものになっている。私のところにも執筆依頼に来たので、ウェブに出した(他の雑誌の)原稿を参考に見ておいてくれといったら、しばらくしてそれをいきなりゲラに組んで送ってきて驚いた。それ以来、岩波とは絶縁したが、その人材の劣化はひどいものだ。

岩波が戦後の一時期まで日本文化に果たした役割は大きいが、今の岩波はもはやゾンビである。当ブログの書評をみればわかるように、岩波の新刊で読むべき本はほとんどない。特に今回の訴訟では、当事者が名誉を傷つけられたと訴えているのに、日ごろ「人権」をうたい上げる出版社がそれを無視して重版を続け、大江氏の支離滅裂な弁解を擁護している人権侵害は犯罪的だ。もし本当に自分たちの正当性を信じているなら、ジャーナリストらしく渡嘉敷島に行って取材してみろ。