最初にお断りすると、『カラマーゾフの兄弟』を読んでない人が本書を読むのも、この記事を読むのも無駄である。少なくとも登場人物の名前ぐらい覚えていないと、まったく意味不明だ。

人生を変えるぐらいインパクトの大きな本というのは、そうあるものではないが、『カラマーゾフ』は私にとってはそういう本の一つだ。高校3年の夏休みに読んで、受験勉強する気がなくなり、夏休みを全部つぶしてドストエフスキー全集(江川訳)を全巻読んだ。もちろん、翌年の入試は落ちて浪人した。最近、著者(亀山郁夫氏)による新訳が、30万部を超えるベストセラーになって話題を呼んだ。

『カラマーゾフ』は、本来は『偉大な罪人の生涯』と仮りに名づけられた後編とあわせて2巻の構想で書かれたが、その前編を書いたところでドストエフスキーが死んでしまったので、後編の内容を推理してみようというのが本書である。単なるお遊びなのだが、推理する過程で、著者のドストエフスキー論や執筆当時の背景がわかっておもしろい。

ドストエフスキー自身の後編についての創作ノートは遺されていないのだが、あちこちでその構想を断片的に述べている。それによれば、後編は前編の13年後で、主人公はアリョーシャらしい、というのが一般に知られている話だ。本書はそれに著者の空想をまじえて、筋書きを推理する。それによれば、
アリョーシャは社会主義者になり、彼に影響を受けた(前編では「子供たち」の1人だった)コーリャは、フョードロフの異端的な宗教哲学に心酔し、テロリストの結社を組織する。コーリャはアリョーシャにその指導者になってほしいと頼むが、アリョーシャは拒否する。コーリャはテロリストの一団を率いて皇帝の暗殺を計画するが、直前に官憲に踏み込まれて未遂に終わる。裁判でアリョーシャはコーリャを弁護するが、有罪判決を受ける。
という、前編のイワンとスメルジャコフの関係をアリョーシャとコーリャに置き換えたようなストーリーだ。たしかにドストエフスキーは、自身がテロリストとして処刑されかけ、「転向」したという過去があり、『悪霊』などでもテロを主題にしている。『カラマーゾフ』の書かれていた時期(1870年代)は、毎年のように皇帝暗殺(or未遂)事件が起こっており、前編の父殺しもそのメタファーと読めないこともない。彼自身の伝記的な要素を交えた「偉大なテロリスト」が主人公になるという筋書きは魅力的である。

それより重要なのは、前編のモチーフであるイワンの「神がいなければ、すべては許される」という言葉が、無神論=社会主義のもたらす悲劇を暗示していることだ。そう考えると、後編は20世紀に、ロシア革命という形で実現してしまったのではないか、というのが私の感想だ。ロシア革命の目的は、何よりも皇帝=神の殺害であり、教会は爆破され、信仰は禁じられた。しかし神のいなくなった世界で、それに代わったのはレーニンという悪魔であり、そこでは「すべて許される」ため、皇帝の時代をはるかに上回る大量虐殺が行なわれた。

イワンの書いた戯曲「大審問官」にも見られるように、ドストエフスキーはキリスト教を一種の「自由からの逃走」と考えていたが、神を否定して人間が「自由」と「理性」にもとづいて行動したら、もっと大きな不幸が訪れるだろう――というのが彼のテーマだったとすれば、ロシア革命こそ70年にわたって演じられた『カラマーゾフ』の巨大な続編だったのではないか。